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君よりも、前から
僕が君を見つけた日。
君が弾いていた曲が何なのか、今も分からないままだ。
君自身覚えていないから、どうしようもない。
「この曲かな?」
と言い、色々な曲を弾いてくれたけれど、どれも違った。
でも、いつかその曲と再会する事を願っている。
だけどもしかしたら、もう再会しているのに、僕が気付いていないだけかもしれない。
あの時だったから。
あの時にしか感じられない、曲への感じ方があったから。
もう、あの時と同じようには感じられない自分になってしまっているかもしれない。
大切な人を失った時。
長い時間、歩いた。
長い時間、これまでの事を振り返った。
疲れ切り、知らない商店街のベンチに座った僕は、君を見つけた。
人の気配のない静かなその場所に、馴染めないように置いてあったピアノ。
どこか寂しく見えるピアノ。
君は辺りを見渡しながら、ピアノの椅子に座った。
君の位置からは、僕の事が見えないらしい。
両手をピアノの上に乗せる。
でもすぐ両手を膝の上に戻した。
また、周りに誰もいないか確認する。
再び両手はピアノの上に乗せられ、静かで、切なく、優しい曲が演奏された。
僕は涙を堪える事ができなくて、胸が苦しいほど切なくて、全身に力が入っているのが辛かった。
悲しいのに、生きたかった。
苦しいほど、優しさを思い出した。
そのうち、聴こえる旋律と和音が、僕を力みから解放していった。
生きている事を必死に教えてくれるその音色。
僕は泣きながらも、彼女の姿を瞳に焼きつけた。
しばらくして演奏が終わると、君はさっきまでの不安そうな表情とは違う、満足そうな顔でその場を去っていった。
僕は泣き疲れもしたが、全身からは程よく力が抜け、前を向く勇気が湧いてきた。
その後、その曲を忘れないように何度も頭の中で繰り返したり、鼻歌で録音もした。
だけど次の日には、自らの力で思い出す事も、録音した下手な鼻歌を聴いて思い出す事もできなかった。
高校に入学し、同じクラスに君がいるのを見つけた時。
僕の恋は本格的に始まった。
多分、始まるのをずっと待っていたんだと思う。
君を見つけたあの日から、ずっと。
君に近づく為の口実を毎日考えていた僕に、チャンスが訪れる。
君が音楽室に筆箱を忘れていった。
何という言葉と共に、君に渡そうかと考えていたら、君が僕の前に現れた。
目が合ったものの、何も言わない君。
僕は、最初のきっかけであるピアノから始めるべきだと思った。
自分でも驚くほど積極的な、言葉に行動。
ピアノを習いたいと、咄嗟に思いついた動機。
その動機は嘘だったけれど、君が和音を弾くのをみて、本当に習いたいかもと思った。
お礼も言いたかった。
あの日のお礼。
それに、君と恋がしたかった。
君が良いなら。
僕は、伝えたい言葉をずっと持ち続けていた。
伝える事ができる時間をずっと待ち続けていた。
君に先に「好き」と言われるのは想定外だったけれど。
愛してる。
今度は君に先を越されずに、そう言おう。
ずっと君の隣にいたいと、そう言おう。
伝える事のできる距離に君がいる。
君を、愛してる。
だから、あの曲を思い出せなくても、それでもいい。
いつか再会できたら嬉しいけれど、あの曲に出会えた、君に出会えたという事実があるから、それで良かった。
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