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祓井戸のある神社までは、急勾配の階段だった。歴史を物語るように苔むして滑りやすい上、段差も不揃いで登りにくい事この上ない。
「いやぁ、これは効くなぁ」
半分も登らない内に良太は息を喘がせた。ベルトの上には、以前はなかったぜい肉が乗っかっている。出会った頃は二十代のように若々しく見えた彼も、ほんの数年の間に年相応の中年親父に変わりつつあると改めて実感させられる。
他の誰かから奪ってまで欲しがったのが、本当に目の前の小太りおじさんだったのか不思議に思えてくる。どうして未だに愛想を尽かす事もなく、自分がしがみついているのかすらも。
ようやく境内に着くと、物置のように簡素なお社の隣に、にょっきりと突き出した古井戸が姿を現した。
昔ながらの石積みで、蓋はなく、黒々とした闇をぽっかりと覗かせていた。井戸とはいえど、どんなに目を凝らしても水らしきものは見えなかった。
「さ、それじゃあ早速はじめるか」
良太は左腕の時計を外した。
「入れる気?」
「そのつもりで来たんじゃないの?」
はにかみながら、躊躇なく手を開く。シルバーの腕時計は、音もなく井戸の闇の中へ吸い込まれていった。
あれは確か――最初のクリスマスの時に阿澄がプレゼントしたものだ。イブとクリスマスはどうしても都合がつかないと断られ、メリークリスマスとお祝いしたのは二十六日。クリスマスケーキの箱には値引きシールが貼られていた。
良太は理由を言わなかったけれど、家族とともに過ごしたのは聞くまでもなかった。あの時すでに、この人の中で私の優先順位は一番じゃないと自覚したはずなのに。あろうことか、それでもいいなどと夢を抱いた。
遠い昔の出来事なのに、昨日の事のように思い出せる。
「……君は?」
阿澄が携えた紙袋を指差し、良太が問う。
「まだ決心がつかないわ」
「不満げだね」
「だって私、まだちゃんと言われてないもの。これで終わりだなんて信じられないわ。明日になったら、また今まで通りの毎日が続くんじゃないかって気がしてる」
阿澄は涙をにじませた瞳で、良太を睨みつけた。
ことここに至っても、阿澄の心の中は整理がつかないままだった。目の前の相手に愛情など露とも感じなくなって久しいというのに、乾き切った良太の心を見せつけられる度に、ズキズキと胸が痛んだ。
これで終わりにしよう、終わりにしたいという気持ちの裏側で、今のままの関係でもいいから続いて欲しいという想いがむくむくと膨らんでいくのだった。
やれやれと首をすくめ、良太は言った。
「そもそものはじまりだって、具体的に何があったわけでもないだろう。なんとなくはじまった関係なんだ。なんとなく終わりにするのがちょうどいいんじゃないか」
良太は鞄の中からいくつかの物を取り出した。ネクタイにネクタイピン、香水にキーケース……。全て阿澄がプレゼントしたものだ。
確かにはじまりは、なんとなくだった。普通の恋人がするように、儀式めいた愛の告白や付き合う事に対する意思確認があったわけではない。流されるように寄り添い、求め合って、今の関係に行きついただけだ。
でも……そんな言い方はないだろう。なんとなくではじまったがために、後悔は絶えなかった。だからこそ、終止符ぐらいはきっちりと打ちたかったのに。
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