青の落下水・ドロップス

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 ミキが顔をしかめていた。  今日は階段に座らない。  狭い段の上で、右足でひょこひょこと跳ねている。  階段から転げ落ちたらどうしようと危なっかしくて不安になる。 「たまーにあるんだ。耳に水が入って出てこなくってさ」  僕はミキのTシャツの裾を引く。  大会が近いと言っていたのに、怪我をしたらどうするのか。  ミキは諦めて座り、僕の左の太腿に右耳を下にして頭をのっけた。水が溜まっている方の耳。 「泳ぎのフォームが崩れてんのかなって心配になる。水が入るって滅多に無いんだけど。いったん水が入ると息継ぎの度に耳が変で、集中できなくなる」  ミキは自由形の選手らしい。自由と言いつつそれは必ずクロールのことを指すのだ。  言葉は難しい。 「目と耳が、陸上生活向けに出来てんだって思い知らされる。度付きゴーグルって何か違和感あるし、耳の中でぽこぽこ水音がすると、駄目なんだ。気持ち悪い」  ミキは手のひらで何かをすくい上げるような動作をした。  耳は僕の太腿にくっつけたまま。 「いつまでも水の中に住んでいられないんだ。いつか出なくちゃいけない。でも水が無いところで、やっていける気がしない」  僕はミキの頭を太腿にのせたまま、かばんに手を伸ばし、ブルーベリー味のあめ玉を取り出す。  言葉の代わりに甘いものをミキにあげる。  それくらいしか出来ないから。 「口、開けられる?」 「あーん」  ミキが頭をひねり、首を仰け反らせる。  いつものように、ぼくの目に逆さまにうつるミキの顔。  伏せたまつげ。  鼻の穴まで見えちゃう無防備な体勢。  開かれた口。乾いた唇と濡れた舌。  その先に、滑る洞窟のように続いていく喉奥の空間。  僕はあめ玉をミキの舌先に落とす。  僕の手指が彼の唇に触れてしまわないように。  慎重に。
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