青の落下水・ドロップス

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 講義室の自席に戻ると、どうしてもミキに目が行ってしまう。  毎日プールの水にさらされて少しパサついた、まとまりの悪い髪。  近付くとふわりと塩素の匂いがする。  この距離ではその匂いが嗅げない。感じられない。  今日は白いTシャツを着ている。大柄というほどではないのに、ミキの肩はたくましい。  合図とともに国語の問題用紙を開き、解答用紙を机の左側に置く。  最初に漢字の読み書き、大設問の二が物語文、大設問の三が説明文、ざっと目を走らせていく。  説明文は変わっていた。内容が変わっていると思った。  クジラの耳垢について書かれていた。 『クジラの音の捉え方は、人間のそれとは異なります。クジラの外耳道はふさがっており、耳垢は生涯、溜まり続けるのです。耳垢栓の長さは五十センチ以上、重さは約一キロにもなります』  僕はその説明文を読み進めた。  想像が止められない。  クジラは自分に耳があることを知らないのだ。  もしもクジラが生きている間に、その巨大な耳垢を取り去ってしまったら、どうなるのだろう。  その意識されていなかった細長い空間を、クジラはどう感じるのだろうか。  空白を埋めたいと願うだろうか。  外耳が切り開かれて、固く長いものが侵入してくる。  耳垢を掻き出す。耳の穴に海水が流れ込んできてしまう。  僕はクジラが戸惑う様を想像する。  かつての地上での暮らしに、焦がれたりするのだろうか。  もう、水の中でしか生きられない身体なのに。
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