ある自営業の苦悩

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 帳簿台帳と電卓を前に、璃莉(りり)は頭を抱えていた。  安物のグラスで、安物の紅茶をアイスで飲みながら、(つま)しいアパートの一室で、もう二時間ほどもうんうん唸り続けている。  売上が落ちてきた。  この半年ほどで著しく。  理由がわからない。最近では帳簿に連日ゼロが並ぶことも多く、めっきり頭を悩ませているのだが、璃莉はどうにも改善策を見つけられずにいた。  繁忙期もあるにはあるが、基本的にはシーズンレスな商材だ。しかしどの月度も昨年対比が大きく割り込んでしまっている。はじめのうちは楽観的だった璃莉だが、さすがに余裕ぶっていられなくなった。  マーケティングや販促に関するビジネス書を何冊も読んだ。読書が苦手なりに頑張ったのだが、扱っている商材が多少特殊ということもあり、なかなか現状に落とし込むことができない。  それでもいくつか自分なりに案を出してはみたものの、実際の行動には踏み切れないまま、時間ばかりが過ぎていた。  開いたノートの一番上には、決して綺麗とは言いがたい筆跡で「価格改訂」と大きく記されている。  第一に考えたのがそれだ。  だが、なんといってもこれこそが、この商売の難しいところなのだった。  ひとによっては人生最大級の買い物。しかしあるひとにとっては、金をドブに捨てるも同義となりうる。そもそも資金がごく限られているという客も少なくない。  個人の考え方、価値観、そしてなにより置かれた境遇、抱えた事情によって、予算感が大きく異なるのだ。  競合は少ないながら、やはり価格を第一に選ぶ客は多い。抑えた設定にすれば客足が増える可能性はある。  しかし、薄利多売と割り切って考えるには、あまりにも現状が心許ない。なにせ、この自宅兼事務所の安アパートの家賃さえ、数ヶ月先には払えなくなってしまいそうな試算なのだから。  次に考えたのが、追加オプションだ。  基本的なサービスの価格はそのままに、魅力的な有料オプションをいくつか設定する。第一案とは逆に、客単価のアップを狙うという考え方だ。  ターゲットはもちろん、低予算ではなく、人生最大の買い物だからこだわりたい、と考える層。うまく当たればかなりの額を上乗せしてもらえそうだ。  だが懸念点は、やはり景気の悪さゆえか、「こだわりたくてもこだわれない」……そんな客が増えていることだった。  現在、価格は三通りに設定している。璃莉の扱っている三種類の基本商材は、それぞれ所要時間も必要物資の仕入れ価格も異なるためだ。事前のヒアリング一時間とアフターサービスは共通としている。  たとえば、メッセージお届けサービス、とか。事前にメッセージを預かっておき、希望の日時に宛先まで届けるのだ。  洒落たレターセットでも調達してくればすぐに実装できそうだし、需要はあるかもしれない。ただ、追加料金を払ってまで利用したいと思う人がどれだけいるか。いたとしても大した価格はつけられない。  そのときふと新しい案がひらめいて、璃莉はグラスを置いた。  いわゆる、お急ぎ便、みたいなものはどうだろう。  申し込みからヒアリングまでは同日中に済むことが多いが、諸々の用意のため、実際の施行は早くても翌日としている。それを即日可能にするのだ。  こだわり層だけでなく、とにかく時間がない、急ぎたい、という人にも選んでもらえるのではないか。  なかなか名案かもしれない。当日施行のためのオペレーションは改めて考えなければならないが、詰めてみる価値はある。璃莉はペンを手にし、いそいそとノートに「おいそぎびん」と走り書いた。  さらにその下に書かれている案は、新たなサービスの付与。  価格は据え置きで、内容を充実させる。たとえばアフターサービスを強化するとか、事前のヒアリングにかける時間を倍にするとか。要は、少ない競合の中からうちを選んでもらうための差別化となる一手だ。  追加オプションと同じく、魅力的で需要のあるものを打ち出せれば、大きな強みとなるはずだ。が、そこにコストをかけてしまっては意味がない。多少の初期費用がかかっても回収できる見込みがあればやってみる価値はありそうだが、正直なところ、今の璃莉にはまとまった出費は痛い。  コストをかけずに価値をプラスする。璃莉は口の中でそう呟いてみた。  どの本だったか忘れたが、ビジネス書の中にあった「ソフトで売る」という言葉は印象に残っていた。  商売においては、実際に売る商品やサービスがハードウエアであり、それを売る人材がソフトウエア。  何を聞いてもろくな返事をしてくれない無愛想な店員と、笑顔が素敵でホスピタリティにもあふれた店員。両者がいれば、同じ商品であっても後者から買いたいと思うのは当然だ。むしろ少しくらい価格が高くても、魅力的な売り手から買いたいという人もいるだろう。それが「ハードではなくソフトで選んでもらう」ということだ。  つまりは、璃莉自身が魅力的な売り手となれば良い。  敏腕セールスマンやカリスマ店員を雇う余裕はないが、扱う商材については誰よりも深く考え、向き合い、技術も磨いてきた。そのことを効果的にアピールし、璃莉というソフトを選んでもらう。客と良い関係を築き、気持ちよく買い物をしてもらうのだ。  ……言うのは簡単だが、実際にはそううまくはいかないだろうな。  璃莉はため息をつく。  自分の愛想のなさ、気の利かなさ、なにより人間嫌いにはいやというほどの自覚があった。一般消費者を相手にする個人事業主として致命的だと感じてはいるのだが、だからこそこの仕事を続けられている部分もある。なかなかどうして難儀な生業なのだ。  まあなんにせよ、と璃莉は思う。  商材のラインナップとクオリティには自信があるのだ。その点をしっかりと伝えることができれば、自然と璃莉の価値も感じてもらえるだろう。そのあたりを踏まえて、広告の文言に手を入れたほうがいいかもしれない。再びペンを取り「アピール文をかんがえる」とメモした。
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