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時間泥棒よ思い出を
お母さん。
お母さん。
お母さん。
その言葉を何度口にしただろう。棺の中の穏やかな顔のお母さん。もう呼んでも返事はしてくれないんだ。
子供たちも瞼を擦っている。
「ほら。最後のお別れだよ」
子供たちと一緒に私もお母さんの顔をまじまじと見る。これが最後なんだ……。
扉は閉められ、お母さんの遺体は炎の中に消えていく。
これからはお母さんのいない日常が始まる。
淋しさと切なさと悲しさ。それが数日は続いた。その中、母の遺品整理に勤しむ。懐かしいものが山ほど出てきて、アルバムをちらりと開いたときは、また涙が溢れそうになる。
私自身、母に愛された自覚は十二分にある。私も母を十二分に愛し返したはずだ。そのはずだった。
「これ……、いつのことだっけ?」
幼い私と若い母が並ぶその写真。考えても考えても思い出せない。私はお母さんとどのように過ごしたんだっけ?
ぽかんと黄昏れていると後ろから声がする。
「お母さん、どうしたの?」
娘の若菜だ。いけない。つい呆けてしまった。祖母を亡くした若菜はもっと不安なはずなのに。
「おばあちゃんとの思い出を思い返してたんだよ」
「ふうん。やっぱりおばあちゃんはお母さんに優しかったよ」
「うん。優しかったよ」
優しかった。優しかったはずだ。どのように優しかったんだっけ?
「そろそろご飯の支度するね」
若菜から逃げるように台所に向かう。
私は母との思い出一つ思い返せないのか……。私は、母からしたらよい子じゃなかったのだろうか。
翌日、若菜と旦那が出掛けてから再び母の部屋で遺品整理をはじめる。何を見ても何を触っても幼いときの出来事が思い出せない。あまりにおかしい。
何か……。何か思い出せるはずだ。躍起になって母の日記を手に取る。私のことが沢山書いてあるが、何一つ映像が浮かばない。何枚も何枚もページを捲り、私は一つの文に目を落とした。
『また時間泥棒さんが悪さした。お母さんの思い出を奪うなってあれほど言ったのに』
時間泥棒? 思い出を奪う? 母は小説でも書いていたのだろうか。あまりにファンタジーな一文に釘付けになる。さらに一枚一枚めくって時間泥棒という言葉を探してみる。
『ご近所さんの顔をしているのに、正体が時間泥棒さんなんて笑っちゃう。田中さんって呼ぶのもついおかしくなっちゃう』
田中さん……。田中さんって、あの田中さん? 確かにご近所だし……。そう言えば田中さん、私が幼い頃と見た目が全然変わってない。どうして今まで気付かなかったんだろう?
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