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序章
乾いた冷たい風が、絶え間なく頬を撫でつける。
なだらかな丘の上にそびえたつローエンシュタイン公爵城。
この城で一番高い城壁の上に立ち、眼下に広がる白銀の景色をぼんやりと眺め始めてから、いったいどのくらいの時間が経ったのだろう。
血の気を失った頬や手は、もう冷たさも感じなくなっていた。
私の姿が見えなくなっても、この城の者たちは誰も探しにきたりしない。
なにを今さら──と自嘲気味に呟き、私は一歩先に待つ奈落の底を覗いた。
そこは暗闇ではなく、白。
この地方で雪が降るのは十年ぶりのことだ。
朝から降り出したふかふかとした大粒の雪は、あっという間に生垣の半分のところまで積もり、リゼルの父母が生前愛した美しい庭園を白銀に染めている。
──もしかしたら、しくじってしまうだろうか
だがしかしこの高さだ。
下で柔らかな雪が受け止めてくれたとしても、きっと助からない。
たくさん血が流れるはずだ。
身体も不自然に折れ曲がり、その凄惨さは、見た者の顔を歪ませるに違いない。
それでも、この真っ白な雪がそれを覆い隠してくれたなら、あなたも思い出してくれるだろうか。
“ローエンシュタインの真珠”と呼ばれていた、あの頃の私のことを──
「やめるんだリゼル!」
思いがけず耳が拾った声に、前に出ようとしていた足が止まる。
信じられない気持ちで振り向けば、そこには、私の世界のすべてだった愛しい夫の姿が。
「……フランツ……」
──なぜ、あなたが、ここに?
これは、雪の精霊が見せる幻だろうか。
死にゆく者へ、せめてもの慈悲をくれるとでもいうの?
おとぎ話なんて信じるような年頃ではないけれど、そう思うのも無理はない。
だって、彼がこんなところにいるはずがないのだから。
彼はもうずいぶん前に、いつものように帰る日も告げずに出かけて行った。
愛する人が待つ土地へ。
「リゼル!早くそこから下りて!こっちへ来るんだ!」
強い風にあおられれば、すぐにでも足を踏み外すだろう頼りない足場。
そこにひとり立つ私に、見ているこちらが気の毒になるほどの青い顔をして、フランツが必死に語りかけてくる。
なんて都合のいい幻だろう。“そうであったらいいのに”という私の願望そのものだ。
本物のフランツは、決して私を止めたりはしないだろう。
ここにこうして決心のつかないまま長時間立ち続け、もはやつま先の感覚もなくなっていた。
下りろと言われても、足が動かない。
これはやはり、いつまでも踏み切れずこの世に留まろうとする私のために、精霊が見せてくれた幻だろう。
『早く楽になれ』
そう言ってくれているのだ。
「ごめんねフランツ……私……私は……あなたを不幸にしたかったわけじゃないの……」
十年間、面と向かって一度も言えなかった言葉が、こんな時になって初めてスラスラと口から出ていく。
「安心して。私が死んだらすべてはあなたに引き継がれるよう手続きしてあるから」
刹那、フランツの顔がくしゃりと歪む。
駄目よ。
そんな、今にも泣きだしそうな子どもみたいな顔をしたら。
たとえまやかしだとわかっていても、嬉しくなってしまうじゃない。
私は、思わず緩んでしまった頬をそのままに、彼に向かって微笑んだ。
二十八年の人生の中で、一番綺麗な笑顔だったと思う。
「もうなにも遠慮せずに、私のものはすべてあなたの自由に使って……そして今度こそ幸せになって……ニーナ様と一緒に……」
「リゼル!待って!リゼル────!!」
とん、と軽く地を蹴ると、まるで自由に空を飛ぶ鳥のように身体は風に乗り、宙を舞った。
地上へ叩きつけられるまでの短い時間、私は、走馬灯を見た。
それは、彼と出会った十年前のあの日──
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