星喰い(ほしくい)

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       一  べたつく潮風を肌に受けながら、真赤に染まる砂浜を、秀雄と二人で歩いていた。かたむいてゆく陽のひかりが、つながっている手と手の影を色濃く映し出している。いまにもほどけそうなそのつながりを、しばしば無感動に眺める癖がついていた。  「今日って、たしか百年に一度の流星群が降るんだってね」  少しだけ高い、少年のような声が、耳をなでた。埋没していた思考をふりほどいて、顔を上げた。  「そうなの?」  「俺もよくは知らないけどさ。たしかね」  曖昧な言葉に苦笑を浮かべる。指の間に砂が入り込み、ざらついた。もう、ほとんど陽も落ちかけている。白波が橙色に染まり、藍色の空に浮かぶ厚い雲は、ゆっくりと流れてゆく。前を歩く秀雄の背中を眺めながら、笑い声を上げた。  「秀雄の影って何か変な形をしているね」  「青年にはだいたい、陰があるよ」  「そうかしら」  秀雄は、苦笑を浮かべて足元を指さした。「あるじゃん、影」と、くだらないことを言うので、それを無視して歩き出した。  夕方になると、波が高くなり、潮の香りが強くなる。空に広がる無数の鴎や、鳶の群れの行く末を見つめ、息をつく。いつまでも、砂の上を歩いていたいような気がした。  「海の見える街で暮らすのが、夢だって言ったじゃん」  「うん」  秀雄は歩幅をあわせて、ゆっくりと歩く。その横顔を眺めながら、微笑を浮かべた。  「案外、暮らしてみると大変ね」  「そうなの?」  「うん。海はさ、好きなんだけど。でも、買い物出るの大変だし、海沿いの風とかすごいのよ。自転車なんか一週間で錆びるもん」  「それ、すごいね。面白いよ」  「そうかな。不便だよ」  淡々とつぶやくわたしの言葉に、彼は嫌な顔一つせずうなずいていた。甘やかされているようでうれしくなる。だけど、そのぶん少し悲しくもなる。胸を焦がすような、くすぐったさを抱えるたびに逃げ出したくなる。  最近、よく秀雄に置いて行かれる夢をみる。わたしの胃や腸は、すでにぐずぐずに崩れ、醜くなっているから。子宮が思考するたびに、女としての肉体をさらすたびに、消えてしまいたくなる。彼の心は、いつまでも老いないから。若い肉体で、飛翔しつづけるその背中に焦がれるのは、愛ゆえではない。憎しみでさえある。  「火星では夕焼けが青く見えるらしいよ」  そう言って、彼が指さした先では、オレンジジュースのような太陽が落ちかけていた。残念ながら、地球から見る夕日はいつだって赤い。  「火星から出る散乱光が赤いから、赤く見えるだけで、透過光は波長が違うから、青っぽく見えるそうだ」  「まだ、誰も火星で夕焼けを見たことがないのかしら」  ふと、沈んでゆく太陽の後ろで、青くなる空を夢想した。光かがやく白い太陽のまわりが、うすぼんやりと青くなっていて、かがやきが広がってゆくに従い、赤くなってゆく。もはや、昼も夜もない、朝と夜の時間がつながってしまっているようで、ほんの少しこわくなる。  「火のように赤い星だから、火星って言うらしいよ」  「そういうものでしょう。名前なんて」  「そうかな。なんだか、つまらないね」  うん、と軽くうなずいた。彼の横顔を見たが、逆光で暗くなっていたため、ハッキリとは見えなかった。微笑を浮かべる頬が、赤く染まっている。照れているからではない。斜陽の魅せるまぼろしだ。  「でも、星ってさ地図みたいなものだったんだよな。昔の人には読めた文字なんだ」  「いまの人には読めないの?」  「どうだろう。でも、昔みたいに読めたら、コンパスも、ナビも、時計だっていらないはずだよ」  「変なの。だんだん、文盲になっているのかしら」  かもね、と彼は相槌を打って笑った。辺りはもう真っ暗で、その微笑さえ、たしかに見えた訳ではなかった。指に触れた、やわらかな熱に、自然歩く速度がゆっくりになった。  「どこにでも行けるってことが、イコールで自由ってことじゃないよな。地図を開いても、目的地までナビをつけてさ。地図を読んじゃいないんだ。土地を、あるいは街角を、少しも読んではいない」  「誰だったか、そんなことを言っていた気がする」  「何て?」  「――街道のもつ力は、その道を歩くか、あるいは飛行機でその上を飛ぶかで、異なってくる。それと同様に、あるテクストのもつ力も、それを読むか、あるいは書き写すかで、違ってくる。飛ぶ者の目には、道は風景のなかを移動してゆくだけであって、それが繰り拡げられてくるしかたは、周辺の地形が繰り広げられてくるしかたにひとしい。道を歩く者だけが、道のもつ支配力を経験する。――とか、なんとか。つまり、読む者と書く者は根源的には違うのよって、話し。読む者は、空想の自由を許されている。でも、書く者は常に森の中をかき分けて歩いてゆくようなものだって」  ふうん、と気のない返事をした。彼はいま、「自分には関係ないな」って思っている。そういう部分に触れるたび、ひっぱたいてやりたくなる。  まあ、難しいことはさておき。そう言って、秀雄はふり返った。  「そもそも、連れて行かれてるだけで、結局行ってる訳ではないんだよなあ」  「星もさ、そうよね」  「そう?」  「うん。読めないから、綺麗だねーって眺めていられる。でも、本当はあの輝きの中にさ、生と死が内包されているんだよね。新星爆発のたびに、わたしたちは、その光を目印にして、遠くまで歩けたのに。都会は光と音が多すぎて、そのサインに、気づくこともできなくなったのよ」  「それってさ」わたしは、風に吹かれてゆれる髪の毛をおさえながら、微笑を浮かべた。「科学がいかに発達してもさ。人の五感は生きているからかもね。でも、その生に気づいている人は少ない。だから、感じることの本当の意味を、知らないのよ。逆に言うと、鈍くないと都会じゃ生きてゆけないんじゃない?」  「そうまでして守るべきものなのか?都会の光って」  「もはや、逃げる気力さえないのかもしれない。あるいは、それが楽しいことだと、自分に言い聞かせて生きているのよ」  「そうなのかな。なんだか、嫌だね。やめたいね」  やめたいって。おかしなことを言うね、と笑いながら、彼よりも早く前へと歩き出した。  夕闇のなか、よせては返す波の音に気を取られ、呼びとめられたことにさえ、気がつかなかった。そうして、しばらく一人で歩き続けた。ふり返れば、必ずそこで待っていてくれるだろう。甘えた子供のようなことを本気で思いながら、黙々と歩き続ける。  秀雄との密な話しは楽しくて、だんだん足が速くなってくる。このまま跳躍してしまえるような、気さえしてくる。砂の中に足を埋めながら、その楽しさのぶんだけ、足跡を残す。  そうして、ふり返った先で、彼の姿は、すっかり消えてしまっていた。うす暗い闇のなかで、辺りを見回してみたが、秀雄の姿はどこにもなかった。どこまでも続く砂浜と、うちよせてくる白波の音だけだ。何度も、彼の名を呼んだが、やはり返事はない。地平の向こうに沈んだ太陽に、どこかへ連れて行かれたのか。  一人、その場に立ち尽くした。何度も、吹きつけてくる潮風に髪を弄ばれながら、息をついた。
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