星喰い(ほしくい)

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       二  「おうい」  突然後ろから声をかけられ、肩が震えた。ふり返ると、一人の老人が立っていた。あまりのことに、大きな声を上げそうになったが、黙りこむ。  「なんでしょうか」  老人は、大きなバケツを持っていた。黒いつなぎに、古びた長靴をはいている。白髭の中から時折のぞく、歯は青白くかがやいている。瞬間眼に入ったかがやきに、バケツの中を見つめた。見間違いでなければ、それは半月のような形と色をしている。ビニール製のおもちゃだろうか。眼を焼くような、青白いかがやきは、ゆるやかに明滅していた。  「あの」  おそるおそる、老人に声をかけてみたが、ぴくり、とも反応を示さなかった。もう一度声をかける。あの、ナニカ、ゴヨウデショウカ。すると、ようやく軽く首をかしげた。  「お前、一人か?」  案外と、言葉が通じたことにホッとした。ええ、まあ。と曖昧にうなずきながら、これまでの経緯を簡単に話した。しかし、老人のぼうっ、とした眼は、わたしの顔を眺めているだけだった。時折、ゆれるバケツの中味を気にしながら、黙りこむと、途端、沈黙が気まずくなってくる。  「消えたのは、お前のほうだろう。しろめし」  しろめし。しろめしとは、白飯のことか。ゆっくりとふり返ると、老人は相変わらず、ぼうっとした眼で、こちらをじっ、と見つめているだけだった。それでも、ついには眉間に皺をよせて、白い鬚を撫でながら「ああ、困ったなあ。また迷子かよ」と、つぶやいていた。どうやら、わたしのほうが迷子らしい。そういうものだろうか。首をかしげて黙りこむ。見かねた老人が、大きなため息をついた。  「いいか、しろめし。お前は渡っちまったんだよ。海を」  海を渡った?わたしは、ダラダラと続く砂浜を歩いていただけじゃなかったのだろうか。辺りを見回すも、変わったところなどない。やはり、いつものようにべたつく潮風が、肌をなで、髪をかき乱し、吹きぬけてゆく。寄せては返す波の音が、砂のうえをすべって、空の向こうへ溶けて消えてゆく。辺りはうすぼんやりとしていて、街の光はずいぶん遠い。  「収穫の時にかぎって、こういう面倒が起るんだよな」 一人愚痴りながら、白髪をぼりぼりとかいている。その声は心底から迷惑そうだった。ああ、まただ。自分の知らないところで、わたしは誰かを煩わせている。無価値で、無益な存在。そんなものは、端からいらない。だけど、いなければならない。その存在の奇妙な軽さを抱え持ちながら、歩き続けなければならない。痛みなのか、苦しみなのか、次第それさえもわからなくなる。  故郷へ、帰れるものなら、帰りたい。だけど、指針を無くしてしまった。この茫漠とした闇のなかで、どこまでも続く砂の中に埋もれて、不可解な老人の言葉しか、頼りにすることができないなんて。  「なあに、泣いてんだ。しろめし」  言われてから、気がついた。ぼろぼろ、と堰を切ったようにこぼれる涙を、手の甲でぬぐいながら、顔を隠した。  その瞬間、空が急に明るくなった。顔を上げると、目の前で青がはじけた。ちかちかと、細かな粒子が、視界のはしへ消えてゆく。続いて、黄や、赤や、白のかがやきが、細長い雨のようになって、大地に降りそそぐ。そう言えば、今日は百年に一度の流星群が降る日だった。そのようなことを思い出し、「ひかりのあめだ」と、つぶやいた。  「はじまったな」  老人はうれしそうにつぶやいて、持っていたバケツを置いた。ちゃぷん、と水がはねる。中で、黄色いビニールのおもちゃがゆれた。どこから取り出したのか、青い釣り竿を転がした。  それをボンヤリと眺めていると、不機嫌そうな声で「いいから、お前も早く座れ。そこにいると邪魔だ」と、言われた。ふん、ぐずぐず鼻を鳴らしながら、言われた通り、老人の隣にしゃがみこんだ。尻に伝わる熱が、昼の暑さを物語る。太陽に焼かれた砂は熱く、じっとりとした汗が、染みこんでいった。 二人とも、しばらく黙っていた。老人が何か言うだろうと思っていたが、何も言わない。沈黙を破るように、ざん、ざざん、波の音だけが絶えず聞こえてくる。  果てのない暗闇を、降りそそぐ光の線が、いくつも泳ぎ回っているようだ。街の明かりがないと、こんなにも自然は美しいのか。鼻をすすりながら、膝を抱えて苦笑した。  「しろめし、って」  「あ?」  「どうして、わたしは白飯なんですか」  ここにきて、老人はようやく笑いだした。何がおかしいのか、はっはっはっ、と声を上げて、空を仰いでいた。気のせいだろうか。老人の髪の毛や、歯が、うっすらと光っているように見えた。  「そりゃ、お前らはしろめしを食うからだよ」  「あなたは違うの?」  「おれは、そんなもん重たくって、食えねえ」  「重い?」  「ああ、飛べなくなっちまう」  まるで、空でも飛べるかのような言い方に、眉をよせたが黙った。それよりも、気になることがあった。  「じゃあ、なにを食べてるの?」  「星さ」  にっと、笑って見せた歯は、青く光っていた。今度は、見間違いなどではない。ほのかに明滅する、そのかがやきは空中を舞って、闇の中に消えてゆく。青白いかがやきは、たしかに虚空のなかで流れ、消えてゆく時のそれによく似ていた。
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