星喰い(ほしくい)

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      六  「さて、待たせたな」  老人は笑いながら、月の殻をさし出してきた。見ると、きらきらとかがやく星の粒が殻のなかで、くるくると回っている。これを生きたまま食べろとでも、言うのだろうか。唾を飲み込み、しばらく黙りこんだ。 「いいか。生のままが、一番うめえんだ」と、尚すすめてくる。哲学者も、今回ばかりは、止めに入る気などないようで、にやにやしながら、わたしの顔を見つめていた。  殻のなかをのぞきこんで、頬を引きつらせる。星の粒は、衰えることなくかがやいていた。特に、勢いよく飛びあがる赤い燐光は、いまにも口の中に飛び込んできそうだった。おそるおそる、それに手をのばす。その怖気づいた様子に、ほら、ぐずぐずしとると落ちるだろ、と急かされた。生唾を飲み込んで、覚悟を決めると、飛び上がった赤い星の粒を、両手ですくった。いまだ、口に入れろ。と言われて、目をつぶる。ええい、ままよ。赤いかがやきを、口の中に放り込んだ。  内壁に触れた瞬間に光の粒は、はじけた。粉々になった欠片が、口の中で激しく動き回る。舌の上で動きを止め、赤い星は、ほのかな温かさを保ったまま、しゅわっと一瞬にして溶けてゆく。 溶けて広がった液体は脈を打ち、米粒ほどの大きさに分裂していった。堅果のように硬くなったものもあれば、グミのようにやわらかくなったものもあり、それらが混ざりあっては、分裂をくりかえし、甘くなったり、すっぱくなったり、辛くなったりした。そして、最後に水のような無味無臭の液体となって、嚥下した喉を、すっと通って、胃の中へと落ちていった。  お腹のなかが、温かかった。胃のなかに入ってもなお、そのかがやきを主張しているように、星の液体は溶けて、わたしの肉のなかに染みわたっていった。  不思議な心地よさだった。  目を閉じると、まぶたの裏側で、収縮をくりかえし、広がってゆく、銀河の流れが見えるようだ。星は時だ。星は速さのもっとも近くによりそう歴史の集積だ。いま、何億光年という時間のなかにいる。  思い出したように、老人の顔を見ると、ひどく穏やかな表情をしていた。やわらかく細められた瞳の奥で、何かを語りかけてきた。しかし、わたしにはその言葉が何か、知ることはできない。  それでも、星を食ったもの同士でしか、わかりあうことのできない感覚が、そこにはあった。わたしは、静かにうなずいた。  そして、また涙があふれてきた。うまかったです、おいしかったです、そんな言葉が浮かんだが、口にすることは、できなかった。ただ、泣いてしまいたかった。星を口に入れたとき、言葉にできないなつかしさを生きたのだ。それは、宇宙のはじまりだった。  ビックバンによって、大きなエネルギーを放出した瞬間に、ちらばった星たちが、太陽系をつくりだし、銀河を形成する。それは数々の偶然の積み重なりと、細部にまでわたる計算の混濁だ。いま、腹のなかでかがやいている星の明るさは、いったい、いつのかがやきなのだろうか。  過去を飲んだのか、未来を飲んだのか、はじまりを飲んだのか、終わりを飲んだのか。おそらく、いまここで、ぜんぶを飲んだのだ。いや、わたしの方が、星のかがやきに飲まれてしまったのかもしれない。あまりにも、途方もない時間の長さに、自分がいかにちっぽけで、小さい存在なのかを知る。しかし、その意志を持った部分が、いくつも折り重なって生きてゆくことで、世界は存在している。足しても、引いても、かけても、割っても、変わることはない。わたしは、わたしであり、世界は、世界であり続けるのだ。  いま、つながっている。大きな何かとつながっている。不安も焦燥も、焼き尽くしてしまうほどの、かがやきの力強さ。光の海は、一つの彼岸の景色そのものだった。だから例えば、わたしの肉体が朽ち果てるとき、死の向こう側へと、帰ってゆくことができるのだろう。  身を焦がすほどの痛みを泳ぎ切れば、生まれてくる時と同じだけの宇宙が待っている。それを見聞きし、触れる媒体など、もはや持ってはいないかもしれない。触れ、感じ、考えることなど、できないかもしれない。それでも、わたしはやはり、宇宙の果てへ帰ることができる。まるで、そのためだけに生まれてきたかのように。  老人は鬚をなでながら、殻のなかでくるくると回る星の粒をつまみ、口のなかに放り込んだ。ぼりぼりと噛み砕き、嚥下すると、満面の笑みを浮かべていた。やっぱり、星はうめえなあ、と、また一つ口に入れた。隣では、そりあがった頭をなでながら、哲学者が笑っていた。今度は、わたしも微笑んだ。  「死と隣りあわせなんですね」  つぶやいたその言葉に、哲学者はハハ、と短く声を上げた。食すってことは、すべてそうでしょう。と言いながら、満天の星空を見上げていた。
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