星喰い(ほしくい)

7/9
前へ
/9ページ
次へ
      七  藍色の地平の先で、白い光が射しこんできた。また、新しい星の一つかと、目をこらして見たが、そうではない。海と空を隔てる地平の向こうからのぞいたのは、太陽の光だった。  ああ、もう朝になるのか。  そう眼を細めるよりも早く、哲学者が勢いよくふり返ってきた。焦慮に染まった表情で「お嬢さん、あなたもう帰らなくては」と、声を上げた。  何事か、と眉をよせたのは、わたしだけではなかった。星を頬張りながら、「なんだよ。そんなに急ぐこたねえだろ。次の流星群を待てばいいじゃねえか」と、老人はのんきに笑っていた。その顔を見て、一瞬気が抜けた。それが、きっかけだった。ため息をつくと同時に、聞こえた次の言葉は、途端わたしを恐怖の渦の中へと飲みこんでいった。  「百年もすりゃ、帰れるんだから」  なんでもないことのように言った、老人の笑いに変化はない。本当にそう思っているのだろう。その途方もない隔たりを前に、愕然とした。震えるくちびるで、つぶやいた。なにを言っているの。  老人は平然としていた。白い鬚をなでながら、「だって、これから月を釣ろうってのに、帰るなんてもったいねえじゃねえか。お前だって月が食いたいだろう?」と言った。  戦慄した。  その微笑みは、まったくわたしのことなど、見てはいないのだった。どれだけ、話そうと、同じものを食べ、その食べた星のうまさや、美しさについて語り、よころびをわかちあおうとも、決して越えられない壁が、そこにはあった。それの正体を、哲学者はとっくに知っているのだった。呆然として、動けなくなったわたしの肩をつかんだ。  「お嬢さん。お早く行きなさい。海を渡るのです。太陽が昇りきる前に、月が落っこちてしまう前に。彼が、月を釣り上げるよりも早く、海を渡るのです。でなければ、あなたはあなたの帰るべき時間の中へは、もう二度と帰れなくなりますよ」  「だけど、」  わたしは、迷っていた。本当に現実に帰るべきなのか。いつだって、肉体の重さを捨てたかった。身体があるから、わたしは醜い。それなら、ここにいれば概ね望み通りとなる。ちら、と老人の笑顔を見る。ここにいれば。  「馬鹿な考えを起こすな」  哲学者は、怜悧な声でわたしの思考をふり払った。  「いいですか。肉体は現実の時間を生きようとするものなのだ。君がどれほど、乖離を渇望しようとも、渇望している、ということがなによりの不純になってしまう。いかに、君が複雑性と、不毛な照応関係から逃れ出ようとしても、君が望むような純粋存在、絶対化は、近づくことは可能でも、まったく成ることなどできない」  「できない」つぶやいた声は、案外つめたく凍りついている。  「そうだ。なぜなら、変化こそが生の証であり、時間が流れている、ということの本質だからだ。だけど、君はその恐怖を抱えたまま、現実の中で生について証明する必要がある」  「どうして」  「解かれていない数式を解くということが、人が人であるということの証明だからさ」  「さあ、早く行きなさい」そう叫び、背を押した哲学者の手は冷たかった。よたよたとした足取りで、砂浜を歩きながら、一度後ろをふり返った。二人は未だ、何か言い争っている。おい、テメ―なに訳わかんねえこと言ってんだ。と、肩を怒らせて、迫る老人をなだめながら、「早く行きなさい」と、また叫ぶ。その声に応じて、辺りはだんだんと明るくなってきていた。わたしは、息もつかずに走りだす。  思っていたより足がもつれた。一度転びそうになったが、どうにかこらえ、砂に足をとられながら、一心不乱に走り続ける。打ちよせる白波につかり、未だかがやきの衰えない海の中へと、入って行った。  冷たい水に混じって、いくつかの星の粒が、スカートのポケットや、下着の中に入り込んで来たが、そんなこと気にしてはいられなかった。  おい、しろめし。良いのか、今年はきっと一番良い出来なんだ。食ってみたいと思わねえのか。弱虫め。根性なし。そんなに、泣くほどこえーのか。バカヤローお前なんか、さっさと行っちまえ。後から、追いかけて来ていた老人の声に、自然涙があふれた。  目の前が白んでくる。  高波がうちよせてくるたびに、赤や青や白のかがやきが、全身を包みこんだ。わたしが星の中にいるのか、わたしが星なのか。もはや、その境界などわからなくなっていた。体が熱い。いま、かがやいているものは何なのか。燃えつきようとしているのか。朝になってしまったのか。視界いっぱいに広がる白に、わたしは一度目を閉じた。  冷たい海水に足を取られ、うちよせてきた大きな波に、引きずり込まれていった。「また来いよ、しろめし」ふり返った瞬間、耳をかすめた言葉は、たしかに老人のものだった。それに応える暇もなく、意識が途切れた。  潮騒が遠のく。なぜ、こんなにも腹が温かいのか。わたしは、星になってしまったのか。わからない。一つだけ確かなことは、星喰いは、星そのものであり、宇宙そのものである、ということだけだ。  茫漠とした砂の上を歩き、あの輝きの海を渡って行けば、変わらずそこで老人が星を食い続けているのだろう。それを思うと止まったはずの涙が、また次から次へとあふれてくるのだった。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加