1人が本棚に入れています
本棚に追加
個人経営の古惚けた喫茶店に男が二人と女が一人、円形のテーブルを均等位置で囲っていた。
喫茶店のマスターはというと、滅多に客が来ないことを理解している風で、定位置に構えられたカウンター内の椅子に足を組んで新聞を広げている。それもそのはずで、この店は定時開店ではなく、マスターの気まぐれで開けられるのだ。しかもメニューはコーヒーのみ。その味はというと、スーパーの一本78円のペットボトルのやつと大して変わらないのである。
男女の前にもそのコーヒーがほとんど減らずに並んでいた。暗黒の表面に時代遅れのペンダントランプの光が鈍く反射している。
マスターの趣味なのか、レコード一つ流れていない店内は閑散としていた。
腕組みをする男たちの一人が一つ深呼吸をした。
「――ふぅ。俺はさ、もうこの国の民主主義は瓦解し始めてると考えてるんだ。だから今こそ戦争すべきなんだよ。分かるか?」
切り出された穏やかではない主張に、もう一人の男が反応する。
「民主主義瓦解の兆候に関しては同意するが、戦争とはちとやりすぎだろ?そこまでいかなくても、違う手段でどうにかできないのか?」
その男は隣の女に視線で意見を促した。女は視線に気づいていたが、男の方には向かず、目の前に置かれたコーヒーカップにずっと暗澹とした目を落としていた。
女がカップを取って、一口啜る。
カップを置いた女が渋い顔でふぅ、とコーヒーに息を吹きかけた。暗黒の水面が小刻みに耀う。
「……戦争って、内戦でしょ?そんなのはいつでもできるじゃないの」
女の真っ赤な口紅が蠱惑的な笑みに伸びる。いつの間にかマスターが新聞の影からテーブルの方を見ていた。が、また紙面へと視線を戻した。
戦争を提案した男も女の笑みにつられるように笑った。
「ハハハッ!だろ?もう戦略は練ってある。この内戦が始まれば、大多数の国民も間違いなく俺たちの方を支持する。もうみんな分かってるんだよ。この国の政治の腐敗は止まらないって。だってそうだろ?何かあれば組織内でしっぽ切り、それでも駄目なら税金で得た金を使って逃れる。俺たちはあいつらのケツを拭くために税金払ってるわけじゃねぇのにだ!」
「おい、あんま熱くなるな。落ち着けって」
興奮し出した男を、もう一人の男が制する。
そこで女が呆れたようにため息をついた。
「バカね。別にあたしはアンタの意見に賛同したんじゃないわよ。内戦が可能ということを交渉材料にする為の前確認だったのよ。早とちりするんじゃないよ、ったく」
「チッ、なんだよ。紛らわしいなぁおい」
男が女を批難がましく睨みつけた。女はどこ吹く風で、コーヒーに口をつけた。やはり大して美味しくないそれに顰め面になる。
「実際のところ、俺もそうする方がいいと考えているが、それで政府は動くのか?」
「……正直、ほとんど成果は見込めないでしょうね。いざとなれば、条約で大国に保護してもらえばいいし、たとえ内戦になっても、各国に同情してもらえば何とかなるしね。だからこそ、あたしたちは交渉するしかない」
「はぁ?おいおい、無謀上等の特攻すんのかよ?勝算の見込みが薄いのに交渉するとかバカのやる事だ!」
また男が熱くなり出したので、もう一人の男が手だけでその言動を制すると、
「――やれるのか?相手は何処の国だ?」
どうやらその男は、女の口ぶりから内戦の為の交渉相手が外の国々だと判断したらしかった。その言葉で一気に熱が引いたもう一人の男は、話しの本筋が読めず小首を傾げてしまう。
しかし、女は首を振る。彼女の否定に、問うた男もまた疑問符を浮かべてしまう。
マスターが新聞を一枚捲る。その音が閑散とした店内にまるで稲妻のように走った。
「国民よ」
何かを察した男たちがハッとした顔になった。
女は先程よりも一段力を込めて話し始めた。
「いいかい、アンタたち。内戦ってのはね、本来なら起こさなくていいものなのよ。だってそうでしょ?至極簡単な話、例えば、今の政府の人間以外の国民全員が、いや、7割でもいいね、その政府とは全く別の政府を自分たちで樹立させたとする。もうそこで旧政府は終わりなのよ。あとは残り3割の内、2割は渋々追従して、あとの1割程度は国外逃亡。こんなもんなのよ。だからね、いいかい、最も重要でただ必要なことは、それを達成させる為のカリスマ的指導者とその人物を中心とした理路整然かつ清廉潔白な組織、そして潤沢な資産だけなのよ。それだけで、あとは国内外でロビーイングを始めれば最初は4割賛同、6割批難だろうけど、これまでの政府の強行や悪行とそれらに使用された税金の内訳なんかの相関や、それに対して新政府が目指す時代に合った民主主義体制を細部まで示していければ、直ぐに7割賛同に傾くわ。ほら、どこにも内戦の兆しなんてないでしょ」
男たちが感嘆に唸った。
マスターがまた新聞を捲ったようだった。
女は唇を舐めた。そして、腕組みをして椅子に深く凭れた。
「ま、それにはまず、その為のベースをしっかり完成させる必要があるわね」
「ベースってのは、その現代に合った民主主義システムだろ?」
「ええ、その通りよ。それがあって初めて全てが開始できる」
「その現代に合った民主主義システムってのは、どれくらいでできんだよ?」
男の一人が女のプランに戦は無いとみえて嘆息混じりに尋ねた。目下のコーヒーの表面に大きな波紋が一つ、広がって消えた。
「実はね、もうほとんど出来上がっているのよ。もちろん暫定的にだけどね」
男たちが一斉に女の方へと身を乗り出した。
カウンターの方で椅子が動く音がした。
「まじかよ!?流石だな!てか、ならやっぱ戦は無しかぁ」
「なにを残念がっているんだ。無いに越したことはないだろ。それで、そのほぼ完成しているというシステムなんだが、気掛かりなことがある」
「何かしら?」
「刑法処分についてだ。こういう大改革が実行される際ってのは、それに便乗した悪人が必ず出てくるもんだろ?それによって混乱でも起これば、折角の革命が徒労に終わるぞ。民ってのは、そういうちょっとした嫌な風でも靡きやすいからな」
「ああ、そのことね。それも当然考慮済みよ。これを見て」
女はポケットからA4サイズの用紙取り出し、広げて二人へと示した。
二人はその内容に目を通すと、一方は惜しみない拍手を送り、もう一方はテーブルに両肘をついて笑みを浮かべた口元を乗せた。
「いいじゃねぇか、よく考えられてるな!しかも、この政策名がいい!」
「でしょ?」
「既に予防策も準備済みとなると、これらが机上の空論にならないように、これからどう動くかだが――」
そこで三人は自分たちのテーブルへと近づく人影に気付いて――
都心のスクランブル交差点で、三人は立っていた。
女は手元の時計に目を落としていた。
男の一人はさっきから落ち着かなそうにスマホを見つめていた。画面が閉じそうになるのを何度もタップして回避させている。
もう一人の男は周囲の人間の様子を哀愁漂う視線で眺めていた。
「――始まるよ」
女の声で、男たちに緊張が走る。
三人は一斉にスクランブル交差点の向こうにある巨大なデジタルサイネージを見た。
垂れ流されているCM映像が切り替わり、壮年の男性のバストアップが映し出された。
この国の首相である。
『みなさん、こんにちは。この度、我が国の民主主義は終わりを迎えます。と言ってもご安心ください。民主主義自体が無くなるわけではありません。ただ、現行の古い民主主義を終わらせ、新時代に合った民主主義をスタートさせる、ということです』
三人の周囲でも、騒めきにつぐ騒めきが波及する
『それではご説明いたします。先ずは新四権分立です。国会、司法、内閣、電情。最後の電情はデジタルの造語です。このそれぞれの国権内部を人とAIで再構築して国民の生活に最大限還元できるように整えます。またこの再構築を中心に憲法改正を行い、国民の権利が最大限守られるようにいたします。それに伴い、各種法律の見直し、地方分権とのバランス調整など、あらゆる点で現代に合致する、かつ厳格性と可塑性の両方を備えた民主主義を構築いたします。そして次に、』
三人は息を呑んだ。
周囲の騒めきも消え、皆人その映像に見入っていた。
首相は一拍の間の後、
『これからの選挙方法についてですが、年齢ごとの全人口比に応じた票の価値を設けます。現在わが国では少子高齢化が加速しています。この状態で選挙を行っても、高齢者と若者では一票の価値が変わってきます。それによって起こる格差を是正する為には、一人一票という状態でも、その一票が、その時代が求める政策を実現させるための価値を持つように票の価値を整えます。またその際、電情機関が個人の一票をセキュリティで完全管理して不正を予防します。これによって、国民ひとり一人の政への参画が促進され、よりその時代に合った民主主義的な国家になる事でしょう。ですが、それにあたって重大な懸念があります。それは、』
首相がまた一拍を置いた。そして今度は、釘を刺すような口調になって続けた。
『このような大改革を行うと、それを悪用しようという輩が必ず出てきます。そこで、それを未然に防ぐ為の予防策、及び事後の対応策を予め伝えておく必要があり、国民の皆さんに置かれましても了承していただくことがございます。そしてこの点が、今回の大改革の肝になります。いいですか、国民の皆さん。今後政府は、刑法に触法した個人とその犯罪歴をデジタルタトゥーとして一律管理することにいたします。またその罪の度合いに合わせた社会的な不都合をつくり、その個人に科します。例えば、賄賂を働いた者がいたとします。すると、その人物の個人データにその犯罪の記録が残り、その人物は出所後、例えば、医療保険料補助や銀行口座の停止などといった目に見える形で社会的ペナルティを負うということになります。これが殺人のような形になると、もっと過酷なペナルティを負うことになります。これらは今まで刑務所が行ってきた役割の延長になります。もちろん、犯罪を犯した者は裁判所で裁かれ、有罪となれば今まで通りに刑務所に入っていただきますが、出所後にそのような形を取る事で一般人に紛れての再犯を防止します。そして再犯の防止をしつつ、その社会的ペナルティを背負った者たちそれぞれに合った生涯贖罪プログラムを文字通り、生涯を通じて行っていただきながらその上で最大限の個人の自由としての暮らしをしていただきます。しかし、これでは選択の自由がなく、あまり民主主義とは言えないでしょう。民主主義ではある程度の選択肢が存在することが望ましいですから。そこでもう一つの選択肢として、我が国と友好的関係にある国への渡航を全額政府負担で一度だけ許可します。もちろん、それが可能となるのは相手国に全情報を伝えて許可を得た場合のみです。そうして双方国で合意が成立した場合はその国への渡航を実施します。ですが、気を付けていただきたい。一度渡航した者が再度我が国に入国する場合、出所後に与えられる社会的ペナルティ及び生涯贖罪プログラムよりも厳しい審査や何十年にも及ぶ入国前訓練を受ける必要があります。それに関しては詳しいガイドラインを策定しますので、よくお読みいただくように、全国民の皆さんにはお願いいたます』
そこで首相はまた穏やかな口調に戻ると、
『以上のことを要約いたしますと、罪を犯した者がする選択は二つに一つとなります。刑務所から出所後、①社会的ペナルティを背負ったまま国内に残って生涯贖罪プログラムを受けながら生活するか、もしくは、②その社会的ペナルティや生涯贖罪プログラムを避けて国外へと渡り現地で暮らすか、ということです。そして、この新政策の名を、』
にこやかに宣言した。
『【On the table? , Bye the table?(自国に残るか、もしくは去るか)】とします。それでは今後、政府がどのようにしてこれらの政策を進めていくのかを具体的に――』
男たちは一度顔を見合わせてから、女へと嬉しそうな視線を向けた。
女はそれに応えるように得意げな笑みを見せると、
「まさか、あのマスターが時の首相様だった、とはねぇ」
演説への素直な感嘆を漏らした。
「あの時はマジに驚いたよな!?マスターが近づいてきて『君たちの話を聞かせてくれないか?』なんて言ってきてよぉ」
「そうだな。それと……」
男の言葉の続きを、女がいない当人を茶化すように引き継いだ。
「『コーヒーの淹れ方に詳しければ、是非とも教えて欲しい』って言ってたわね」
男たちが顔を見合わせて、ゲラゲラと思い出し笑いを始めた。
「はははっ!そりゃ、お前の所為だ!」
「ははっ、確かにな。コーヒーを飲む度にあんな顔されて、しかも直後の会話に……とくれば、気にしないでいる方が無理というやつだろう」
「わ、悪かったわね!今度また行って、あたしが教えてあげればいいんでしょ?分かったわよ、ったくもう」
女の珍しい反応に、男たちの笑いは一段と大きく膨らんだ。
最初のコメントを投稿しよう!