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第三部 隣国の敵意、友の真意
【木星】
その巨躯を眼前にすると、縞模様の渦に吸い込まれそうな感覚に襲われる。大赤斑の怪しげな赤色は、その大気成分と相まって妙な毒々しさを放っており、俺は窓から目を背けた。
木星は年に二センチほど小さくなって行くらしいが、そんな気配は微塵も感じられない。いつも通り、デカい図体で窓一面を占拠している。
実体となる、いわゆる惑星の表面にあたる部分は随分小さいらしい。金属質の固体だと言われているが、まだ人類はそこに辿り着けていなかった。地表を調べる探査機が何百台も送り込まれてはいたが、強烈な重力の井戸に捕われて、どれもこれも戻って来た試しはない。運良く受信できた映像も上手く解析できてないらしく、地表面の探査は頓挫しかかっていると聞いている。
近づくだけで危険な場所に、何故俺たちがいるのかと言うと、地球を上回る木星の大気層から資源を得るために、名だたる国家群が共同で木星を起点とした宇宙ステーションを作るに至ったからだ。
金星にも木星ステーションの先行型として同じような施設があると言うが、二酸化炭素ばっかりしか取れないらしく、近々閉鎖されるって話しだ。
その点、木星の大気層は桁違いに膨大で、ガス状の表層からは主に水素やヘリウムガスを採取している。含有量の割合が少量とはいえメタンやネオンなど地球上では希少な物質も採取できるらしい。その他に、大気に混じった様々な金属類の粉も、チリツモではあれど集めると地球では想像もつかない分量になるという。無尽蔵とも思える資源は地球に住む人類にとって、長いこと頭を抱えてたエネルギー問題やら資源問題やらを一気に解決するはずだった。
実際に運用を開始して見たところ、採取した資源を地球まで送り届ける輸送コストが相当なものだったようだ。それに、輸送船の強度にも大きな問題があった。真空では空気による摩擦がないのはみんな知ってることだが、小惑星やそれをもっと細かく砕いたようなゴミクズみたいな塵や、親指の爪ほどの氷の破片でも容易に船体を貫通する。船の機関部とかは普通の運用でも誘爆の危険性があるのに、積んでる中身によっては即、木っ端微塵に吹っ飛んで……つまり宇宙に新たなゴミが増えるってことだ。
これは輸送人員にかなりの精神的負荷がかかるってんで、メンタルヘルスのカウンセラーの帯同が義務付けられた。噂によると最新の輸送船には重力防殻という、理解不能な仕組みで船体を防護する機能を備えた船もあるらしいが、俺はまだ見たことはない。
それと、資源の輸送事故が起こるたび、地球の上では木星資源計画の反対派があちこちで中止を叫び、デモを起こすようだ。この計画が上手く行くと、地球には困る国や企業もある訳で、事故の裏にはキナ臭い国家同士のメンツや利権、企業間の闘争が絡んでいる……などの噂がまことしやかに流れたりもした。
木星の衛星軌道には、たくさんの自然衛星が周回しており、ブラックホールには到底及ばないが、重力の井戸が彗星や小惑星の欠片などを引き寄せたり、ハロー環の宇宙塵の影響で、木星を周回させる人工衛星や宇宙ステーションを作ることが難しいとされていた。磁気圏は地球の十四倍もあり、ステーションの位置によっては長い期間地球との通信が遮断されてしまうことがある。今のところはこの現象を避けることができないので、急いで連絡したい時には本当に辟易する。
木星ステーションはハロー環のように惑星に取り込まれる循環に逆らい、微妙な力加減で引き込まれることなく、また離れ過ぎないように調整する……とかなんとか、俺にはよくわからん原理を使った機構によって、この位置に存在していられるとのことだ。友人の技師が『命綱なしの綱渡り』と言うくらいには危うい状態なのだろう。
ステーションは大まかに一本の長さが一キロくらい、直径が二百メートルほどの円筒が四本組み合わされて形作られている。その形は日本の神社の入口に突っ建っている鳥居という建造物に似ていたため、トリイと名付けられたそうだ。何とも品があるのかないのかわからないセンスだが、円筒自体がそんなにシンプルな形状はしておらず、寧ろあちこち色んなとこが出っぱったりひっ込んだりしている。この通称を付けたと言う、俺と同郷の輸送船機関士が鼻高々で話してきたので、俺は『猫も嫌がる不恰好なキャットトンネル』と評しておいた。
木星を周回する比較的有名な衛星に比べれば数千分の一程度の建造物なので、それにぶち当たることはそうそうないとしても、他に無数に飛び回る破片程度でもぶつかったら大変なことになる。一応そうした接近物に対する防備として、ステーションの外壁にはレーザー砲塔がいくつか設置されている。技師によると気休め程度のものらしいが。月一ペースで破片の接近があり、警報が鳴ることもあるので、気休めでないことを祈りたい。
トリイの縦方向にあたる二本の支柱は、地球と木星を往来する輸送船が逗留するドックで、居住区も兼ねている。横方向の二本は研究棟と生産棟に分かれている。
木星に直接降り立つ方法はまだ確立されていない。木星自体へ近づき過ぎると戻って来れなくなるが、資源の採取のためにステーションから木星の表層に向けてパイプを伸ばし、大気成分を抜き取る。下手に伸ばすと木星の重力に捕らえられてしまうので、パイプ作業は細心の注意を払って行われるのだ……。
と、まあ、これらは全てステーションに駐留している研究者や技師か誰かから聞いた話しだ。俺はここに送り込まれて業務を遂行しているが、ステーションの原理や構造、採取している資源のことなんかほとんど知らない。
そういうのは研究棟の連中の仕事で、俺たち生産棟にはあまり関係ないからだ。このステーションがどうやって空気を作り出しているか説明しろ、と言われても、木星から採取した資源を利用してるくらいの認識しかない。
生産棟の農業部門の俺は、ステーション内で働く研究員や職員の食糧となる野菜や穀物、精肉などの生産を行なっている。精肉と言っても食堂へ回せる畜肉には数に限りがあるので、タンパク質は大豆ミートで代替するか、鶏卵で摂ってもらう。研究員はぶちぶち文句を垂れるが、あいつらの腹を満たすほどの牛、豚、羊を育てられる面積がないのだから仕方がない。ただ、やっぱり本物の肉はセロトニンの分泌量が違うので、クリスマスなどの行事ではなるべく貯めておいた肉を食堂に出すようにはしている。宗教上、特定の肉を口にできない職員も多いし、主義趣向の違いもあるため食堂は多国籍料理の屋台の集合体みたいな賑わいがあった。俺も色々な国の味覚を楽しめるので、この食堂は気に入っている。その日の気分で料理を選ぶことができるしな。ともあれ食堂は職員の憩いの場であることは間違いない。それに、ここに集まるメンツとも顔馴染みになったし、飲み仲間もできた。
ステーション内では、地球で起こった領土侵犯に端を発した紛争が目下の話題となっていたが、そこだけではなく紛争はあちこちで起こっているし、そう珍しいものではない。
俺はあまりその話題には口を挟んだりしないでいた。わざわざ飲み仲間との関係を悪くする理由も価値もない。
俺が任期を終えて地球へ帰還するのはあと二年半後だ。まだまだ先は長い。
さて、そろそろ生産棟へ行かないと。
朝の早いアイツのことだ。始業時間を過ぎても部屋でのんびりしてる俺に痺れを切らしているに違いない。
ほら、部屋の電話からコール音が鳴った。
俺は受話ボタンを押さず、作業着を羽織って部屋を出た。
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