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1.美しい女医、小日向小夜
この神津地方裁判所の第一法廷は異例の賑わいを見せていた。
罪となるべき事実自体はそれほど耳目を集めるものではないのかもしれない。中嶋有吾という少年に対する傷害罪だ。しかも事件から既に5年も経過している。発生した場所も南神津の外れのスラムにほど近い場所で、何もなくとも日常の中に暴行や傷害、殺人が織り込まれている場所だ。
けれどもこの事件に関しては、多くの新聞やカストリ誌が有象無象の記事を書き散らし、その評価は真っ二つに割れた。被告人は羅刹女のような極悪非道な女であるとか、いやいや評判通りの聖母のような女医師であるとか、ともあれ一つも同じ記事がない。だからこそ、この裁判所の前には人だかりができ、僅かな傍聴券が高い金で買われている。
被告人は小日向小夜。
目の前にいるが、その存在は不確かだ。
月の光のようにサラリとした立ち姿、腰まで伸びた濡羽色の美しく真っ直ぐな髪は、今は首元で簡単に束ねられている。透き通った黒い瞳は、なんの罪も感じさせない視線を真っ直ぐに正面の裁判官に向けていた。喪服のように黒い着物を着ているが、確かにその様子は聖女のように優しげに見えた。年は40のはずだが、20半ばほどにしか見えない。
たしかにその見た目からは、小夜は罪を犯すようには見えない。だからみんな半信半疑だ。裁判官も、傍聴席も、その表情を見渡せば容易にみてとれた。そして報道を見てこの裁判所に駆けつけ、今も裁判所の回りでうろついている大勢の民衆とて、同じように思っていることだろう。
けれども俺が見た姿は、そのようなものではなかったのだ、決して。
「それでは検察官の笹森からお伺いします。あなたは警察官が踏み込んだ時、何をされていましたか」
「何を……清次郎さんの目を摘出しておりました」
法廷の空気に困惑が溢れた。その述べる意味を感得できなかったからだ。
時間を待つ。この言葉が人の頭に染み渡る時間を。たっぷり五つを数えた頃、傍聴席からヒィという声が上がるのを皮切りに、椅子はガタと音を立て、色めき立つ音が傍聴席から発せられる。裁判官も信じられない、というように目を丸くした。その気持ちは俺にも十分に理解できた。何故なら、そのような発言をしたにもかかわらず、小夜の表情は先ほどと何も変わらず湖面のように静かだったからだ。そこには反省やら後悔やら、或いは喜悦といった、通常異常に起こりうるべき何の表情の動きもなかったからだ。
けれどもこれで、俺が小夜に尋ねる内容がもう少しまともに耳に入るようになるだろう。
「本年十月十四日の十七時三十二分。私と警察官二名はあなたの盲啞院に伺いましたね」
「はい」
「あなたが立て篭もる地下室の鍵をこじ開けました」
「鍵をかけておりましたが、立てこもってはおりませんわ。警察の方とお名乗り頂ければ開けて差し上げましたのに」
「何故、警察と言わなければ開けないのです」
「手術の際には清潔に保つのが当然です。あなた方が乱暴に立ち入ったせいで清次郎さんは細菌に犯され、今も入院しておりますのよ」
小夜の口調が非難めいたものに変わり、全ての視線が疑義の目を俺に向ける。その物言いに、思わず奥歯がギリリと軋む。
確かに鍵は閉まっていた。警察だとも名乗らなかった。だからその扉を蹴り上げ、予想した以上の惨状に思わずうぷりと喉元をこみ上げるものを我慢し、警察官を突入させたのだ。
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