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「異議があります。本件とは無関係です」
正面からやや低い、流麗な声がした。
目を上げれば、細身の上品な洋装を身にまとった美丈夫が、目を閉じたまま、証言台にいる小夜を通り越してこちらを見つめていた。そう感じた。
|加賀。小夜の弁護人だ。未だ30程にもかかわらず、敏腕弁護士として名を馳せている。義人として名高い。何故なら時折、貧乏人や冤罪、つまり官憲に陥れられたと主張する者の弁護を格安で請け負うからだ。
「裁判長、今検察官が発言した内容は、本件とは無関係の向後清次郎の手術についての話です。今回被害者とされている中嶋有吾の件とは全く関連がありません」
「裁判長、これは被告人がどのように犯行に及んでいたかを立証するために明らかにすべき事実であり、向後清次郎の」
「そもそもですが、被告人小日向小夜は医師であります。検察がさかんに『傷害罪』だと主張する公訴事実も医療行為です。正当行為であり、違法性が阻却される。これが違法だというのであれば、そもそも医療は成り立たない」
再び法廷内がざわめき、その傍聴席には混乱し左右を見回す顔と、納得し頷く顔に別れた。そして俺がこの事件を起訴しようとして上席に止められたのは、まさにこの点だった。
違法性阻却事由。
それは違法な行為であっても、様々な理由で罪となることを免れる事由だ。
例えば正当防衛や緊急避難。自分の損害を免れるためには一定程度、相手の権利を妨げることが許される。そうして正当行為というのは、法律の定めなどで違法にならないと定められた行為だ。
例えば俺ら検察官や警察官が人を逮捕し留置所にぶちこむ行為は、一般市民が行えば逮捕・監禁罪や強要罪となる。それと同じように、医師というのは人に対する傷害行為が許されている。何故なら手術というのは必ず人への侵襲、つまり加害が前提となっている。例えその手術が失敗し、それによって患者が傷害を負い、果ては死亡したとしても、それが正当な行為といえる範囲であれば、その行為から違法性が失われ、罪に問えなくなる。傷害罪や傷害致死罪は成立しない。
「その正当性に疑義がある。だから被告人の行為の態様を立証しようと」
「それは既に主張したとおりです」
加賀の舌鋒は鋭い。
そうして加賀は、その薄い唇に僅かに微笑みを浮かべながら、手元の資料など一切見ずに背筋を伸ばして堂々と、常に真っ直ぐ前を向き続ける。それが裁判官に、あたかもその主張が正しいかのような誤解を与えるのだ。
そもそもその被告人代理人席の前には資料などほとんど置かれていないのだ。
「検事のおっしゃりたいことは、このようなことですよね。被告人は向後清次郎の目玉を食べた。それが証拠隠滅に当たると。つまりやましい事があるのだと」
「その通りだ」
「それ以前にあなた方の行為を顧みられるべきではありませんか。あなた方は令状もなく突然手術室に押し入り、つまり違法な捜査によって、折角被告人が清潔に保っていた手術室を外部の細菌によって汚染しました。その中で被告人は必死で向後清次郎の治療に当たったのです」
「それは、いや、今は俺の時間だ。俺が被告人を尋問している」
傍聴席の目は既に冷たい。俺はこの議論には乗りたくない。
苦し紛れの発言ではあるが、正当性は俺にあるが、傍聴席には言い訳と聞こえただろう。
尋問というのは交互に行われるものなのだ。検察官が一通り被告人に質問した後、弁護人が被告人に質問する。そのような流れなのだ。だから俺は裁判長をじっと見た。決定権は裁判長にある。裁判長は逡巡しながらも、法律に則る。彼らはそのような生き物だ。
「検察官、質問を続けて下さい。但し、本件に関係することを中心に聞くように」
ほっと胸をなでおろす。
けれどもここからも問題は山積みなのだ。この被告人、小日向小夜が中嶋有吾の両目をくり出したという事実に辿り着く道はまだ果てしなく遠い。
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