2.検察官、笹森徳次郎の過去

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 戦況は進み、いつのまにか、軍靴の音というものが俺にもひっそりと忍び寄ってきた。そうして昭和19(1944)年末、俺に赤紙が届いた。 「おめでとうございます。召集令状をお届けに参りました」  その時一人暮らしをしていた俺は、玄関を開けた時、まさかと思った。俺は徴兵になど行かぬものと、なぜか思っていた。けれどもその、帽子の影で顔のよく見えぬ男の差し出す薄赤い紙は、受け取らざるを得なかったのだ。ちょうど朝。多くの者の目が、俺がその紙を受け取るのを複雑な表情で眺めていた。  その複雑さに、初めて俺は世間というものを直視した気がする。嘲り、誹り、気の毒、妬み、怒り、同情といったこれまで俺自身が直面したことのない感情が俺を突き刺し、それら全てを隠して口々に『おめでとう』と呟く。  それは一体どういう意味での『おめでとう』だったのか。  その頃丁度、俺の父親が新聞の紙面を賑わせていた。辞職したからだ。誌面では農林省長官罷免という文字が踊っていた。  どうやら父は戦争に消極的、というよりは積極的とはみなされなかったらしい。確かに農家の男は半分をこえて徴兵に取られていたものだから、農業政策は縮小し、食料というものが不足していたことは確かなのだろう。だから農林省長官として農業政策の観点から、徴兵の方針に苦言を呈したようだ。あまりに農家からばかり人を取りすぎると。けれどもそれは戦時下という特殊な状況では許されるものではなかった。だから、それまで免れていたものが、免れ得なくなったのかもしれない。  俺はそれまで実家に暮らしていた。検察官、特に思想検事などが出入りすると立場上、やれ国家反逆の捜査かなどと無駄な憶測を招く。だから俺は引っ越し、別の部署に移転となった。けれども息子だと知ってカストリが追いかけてくるものだから、引っ越し先で俺の素性はしれていた。  そうして俺はそれまでの自身が特権階級であって、そうでなくなったことを知ったのだ。  戦争。俺は中国南方戦線に配属された。  その経験は筆舌に尽くしがたいものだったが、その事自体は今は多くはかたるまい。過酷さを増す戦争の中で同じ隊の兵士こそが互いの生命線であり、共に戦場を駆け、同じ釜の飯を食い、日夜互いを鼓舞するために歌い騒ぐ中で、自然と互いの素性について知れるようになった。そこには様々な階級や職業や立場の人間がいた。世の中というのは俺が考えていたように、単純にぜんとあくで割り切れるようなものばかりではないことを知った。
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