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Prologue.切掛
切掛。切掛でしょうか。
とはいえわたくしに思い当たるものは一つしかございません。そしてそれは随分不確かなものなのでございます。
そうですねぇ、その日はたしか、十三夜のころでした。見上げれば晴れた空にぽっかりと、少しだけ欠けたまぁるいお月様が浮かんでいたのでございます。
戦争が終わってまだ二月ほどの頃で、市街は未だ焼けっ原もバラックも多うございましたが、月だけはこのあたりが焼けただれる前と変わらず綺麗だなぁと見上げておりますと、急に何かがふわりと降りてきたのです。燃え上がった煤の塊のようなその何かは、わたくしの胸をトンと突き、そのままするりとわたくしの体の中に染み入ってしまったようでした。
丁度空を見上げていたものですから、その闇が一体どこからやってきたのか、とんと見当も付きませんでした。なにせ周りの闇はお月様の煌々とした明かりに追いやられて縮こまっておりましたもので。
ですからひょっとしましたら、お月様がまあるくなるのに抵抗していたその闇の一欠片が、根負けしてわたくしの中に逃げてきたのかもしれません。
けれどもその闇は一体何だろう、この夜の欠片はなんだろう。わたくしはそう思い、不安になりました。それは確かに、わたくしの内側に入り込んできた、そう感じられたものですから。
けれどもそのうち、そのことを次第に忘れていきました。
なぜなら、わたくしには取り立てて何らかの変化など訪れなかったからです。最初はなにやら、わたくしではないものがわたくしの中にある、そのように感じておりましたが、その違和感は次第に淡雪が解けるように失われました。わたくしの不安が凝り固まり、その不似合いが違和感を齎していたのかもしれません。
「本当に何も、何かなかったのか、本当のきっかけなんかは」
「本当の、と申されましても」
「戦後直後というから十二年前だ。その頃からだろう?」
切掛でしょうか。
そういえば、そのしばらくの後、小間物屋の女将さんにこのように声をかけられたことがありました。
「お小夜さん、あんた最近、飴の食べ過ぎじゃないかねぇ」
「あら、そうでしょうか」
「そうってあんた。今も手に持っているじゃあないか」
手を持ち上げようとして、カランと音がしたのに気づきました。
見下ろせば、そこには掌に入る大きさの四角く平たい缶があり、思わずキャップを外してさかさにしてみれば、コロリコロリとドロップが転がり出たのです。少しだけ透き通った、まあるい黄色と緑色。缶のヘリにぶつかって欠けた姿が、なんとはなしにあの十三夜が思い起こされました。
「ほら、また」
「あら、お恥ずかしい」
「飴と言えば、そういやあんたんとこ、新しく子どもを引き取ったんだろう?」
「ええ。男の子です」
「あんたも奇特な人だねぇ」
その子は朔太郎と申します。変化といえば、そのくらいでございましょうか。そうですね、確かにそれは変化といえば変化ではございます。
そう言って、女、小日向小夜は、木製の証言台の上でにこりと微笑んだ。
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