青栗ヶ丘のお屋敷

2/3
前へ
/9ページ
次へ
旦那様は英語、イタリア語、フランス語、ロシア語、そして日本語を操る、フランス人の翻訳家でした。年のころは五十代半ばくらいに見えました。 白に近いグレーの髪と吸い込まれるような深淵をたたえる瞳、瞳を彩る白くて長いまつ毛、近くに寄ると漂う香水の香りも。 素敵な紳士だと思いました。一目で恋に落ちたと言ってもいいくらいでした。   奥様は三十代半ばくらいの女性で、大変美しいお方でしたが、日本語しか話せず、気が短くてすぐにヒステリーを起こすのでした。 奥様は怒ると、「シャーラップ!」と「ストゥピッド!」の二語だけを大声で叫んで、自室に入ってしまわれました。 お屋敷には料理人が居りましたし、運転手も小作人もおりました。掃除夫だっておりました。だからわたくしの仕事はお洗濯と旦那様と奥様の身の回りの世話が主になりました。お二人には子供がおらず、寝室も別々になさっておいででした。 あの夜も、お二人は喧嘩をされて。 奥様は先に寝室に入っておしまいになりました。 残された旦那様は、無言でディナーを召し上がっておいででしたが、食べ終わるとナプキンで口を拭き、料理人に「あとでホットワインを届けてくれ」とフランス語で言い置いて、書斎兼寝室に上がってゆかれました。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加