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第1話 婚約解消
高級な黒檀のテーブルに金貨が十枚ずつ山をつくり、無造作に二十ほどの山が点在していた。
俺の保安官の給料ではとても手にすることができない金額だ。
鈍い光を湛える第三十一代国王の瞳が、俺に向けられたような気がして、視線を金貨の山から外した。
ケチ臭いストイックな喜びを味わうためなんだろうか、俺はつい何食わぬ顔をして目の前に座る老人に顔を向ける。
「ここに誓文を書いてほしい」
しわがれた、しかしどこか、上品な甲高い声がおずおずと聞こえ、俺は静かに置かれた紙をじっと見た。
文面には、『今後一切、マイロン・フォン・ユーゼリエと接触しない。また婚約は解消する』といった旨の文言が丁寧に書かれていた。
あとは、サインをするだけ、ということか。
「……マイロンは、何もかも承知なんですね?」
深い隈をつけた老人は、静かに首を縦に振った。
俺は羽ペンをとり、サインをしようとしたが、ふるふると指先が震えたので慌ててテーブルの下に隠した。
――内心、ショックだった。
マイロンとは三年間、恋人同士でラブラブだった。
お嬢様のマイロンは、多少無茶な注文をデート中にしてくる。しかし懐を痛めても、かわいさ倍増で、その分稼ごうと仕事のやる気もでた。
美術館でデートをしたときは、この絵がほしいと俺に指をくわえて言ってきたので、一年分の給料を使って買ってあげたこともあった。
その日から残業づくしで、俺はいつの間にか無敵のギルド保安官になっていた。
マロンちゃんとの生活はこれからって時に……。
それにまだキスもしていないのに……。
「こ、これからの生活の邪魔になりますからね……」
俺は適当に話を繋いで、テーブルの下で羽ペンを握る手の動揺を抑える。
老獪な表情を見せた男は、きらりと目が光ったように思えた。
「……まさか、そこまで調べ上げているとは、さすが保安官ですな。ある貴族から婚約の申し出がありましてな」
え……そうなの?
マイロンって、婚約するの? 嘘。
「マイロンにとっての幸せを考えてみなさい。たしかにあなたは敏腕のギルド保安官だ。しかし、それだけで王室の正式な家系であるユーゼリエ家を継ぐことはできませんよ」
老人と俺はただ黙った。
ウイスキーが並ぶアンティークのキャビネットが、不意に軋みをあげる。
老人が言うことはもっともだ。今は幸せかもしれないが、彼女が王室の援助を受けているからこそ成り立っているのだ。もし王室から一般市民の籍に移ったとき、まるで積み木が崩れるように、彼女との関係も崩壊するに違いなかった。
初めから分かっていたことなのに、知らないふりをしてきた代償だ。
心の整理がつき、腕の震えも止まった。
俺は誓文にサインをする。『ハーズ・ボトリック』と。
老人は長いため息をついて、誓書を丁寧に折りたたみ内ポケットに隠す。
そして俺はテーブルに広がった金に目もくれず、ドアを引いた。
「ちょっと待ちなさい!」
老人が焦燥しきった様子で俺の肩に手を掛ける。
「ハーズさん、この金貨はあなたのものだ! 持っていきなさい」
俺は体半分を廊下に出して立ち止まる。右目の涙ぶくろに涙が溜まり、流れ落ちるのは時間の問題だった。
「……手切れ金なんていらねぇよ……」
肩の手を振り払って、俺は大股で屋敷から出た。
広々とした1エーカーほどの庭を歩く。後ろから視線を感じた。
きっと屋敷の窓にマイロンがいるのだろう。
しかし後ろを振り向くことはできない。
――俺は号泣していたからだ。
右目からとめどなく涙が溢れ、シャツの襟を濡らす。鼻水がでて、上唇で辛うじて塞き止めている。できるなら、大声で泣いて、膝をついて、地面を叩きたい。マイロンとの思い出が次から次に溢れて来るのだ。
マロンちゃんー!! 大好きだったよぉー!! 別れたくないもぉー……。
しかし、悟られることなく、静かに去らなければいけない。それがストイックな男の生きざまというものだ。
彼女の前途を祝して、俺は沈黙したまま鉄門をくぐった。
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