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来訪者(5)
消毒液を浸したガーゼを顎下の傷に押し当てられると、でかっ鼻の電撃に近しい痛みに襲われる。
「じっとしていてください!」
「それ、本当に消毒液? 殴られた時より痛いなぁ」
保安室でハネンが救急箱から、包帯を取り出した。
「大げさだな」俺は顔を引っ込めると、ハネンが頬を膨らませる。
「顎の骨が折れているかもしれません! ちょっと我慢するだけですよ!」
そんな包帯を付けた風体で、ギルドメンバーにきついお仕置きなんかできない。ナメられて仕事が増えるだけだ。
抵抗していると、エレナが事務局や保安局から情報を集めて帰ってきた。
「三人の身元だけど、他国で兵士をしていたり、冒険者からギルドメンバーになったり、昔からの傭兵だったり……バラバラね。
でも一つだけ共通点があって『フェリガ』っていう宗教団体の信者らしいの。三人とも片翼の銀バッチを持っていたって」
新聞に載っていた新興宗教の広告を思い出した。右の翼しかない奇妙な紋章が印象的だった。
フェリガは他の町で多くの信者を獲得し、ウエストリバーでも急速に勢力を伸ばしている。
「ニーサ・セアは誰に殺されたか、分かっていないのか?」
「それが……殺されてなんかいないのよ。全部あの三人の嘘。ハーズさんを連れ出す口実だったわけね」
連れ出す口実は、ニーサの殺害容疑以外でもよかったのかもしれない。要は生死の確認がとりにくい相手であればいい。
――しかし、妙に引っかかった。
昨晩のニーサの奇妙な依頼といい……理論的に説明できない蟠りが俺の中で残った。
「なぜ魔石の在処を聞き出そうとしたのか、その理由は分かったのか?」
「まったく不明。三人とも一切、口を開かないらしいのよ」
包帯を諦めて、救急箱を片付けるハネンを呼び止める。
「ハネン、あの珍しい魔石覚えているか? あれは今、どこにあるんだ?」
ハネンは急に魔石のことを聞かれ、目を丸くした。
「私の借り部屋にありますけど……?」
「エッ、持ってきているのか⁉」
「は、はい……。いずれ……その……あの魔石でマジックアイテムを作って売れば、資金になるかなって。もちろん、祖父には話をしています」
「なんだ、店を構えるつもりだったのか」俺はわざわざ自分の給料から、ハネンの生活費を捻出しなくてもいいんじゃないかと思った。
「いえ、その……結婚資金にしようかなと、ハーズさんとの……」
ハネンは顔を赤くすると声が小さくなった。
はっきりと聞こえてしまったが、俺はそれにそっと蓋をした。
「ハネン、その魔石を狙っている奴がいるらしい。危険だから、いったんギルドで預からせてくれないか?」
「わっ……分かりました!」
狙われる理由が分からない間は、あの魔石から距離をとっておいたほうがいいだろう。単に金銭的な価値だけでは、凶行の説明がつかなかった。ギルド保安官を殺せば、すべての町のギルドからその身を追われるのだ。
俺はコートをつかむと、保安室の扉に手をやった。
「ハーズさん! どこにいくんですか!?」
救急箱を抱えたまま、ハネンが驚いた顔で尋ねる。
「ちょっと宵闇通りの酒場に行ってくる」
「そんな! もう深夜ですよ? 怪我もしているんですから!」
ハネンは今にも泣きついてきそうだ。
「大丈夫だ。心配しなくていい。エレナ、ハネンのことは頼んだぞ」
「あ、はいはい」
俺は宵闇通りに向かった。
***
宵闇通りはその名前以上に暗かった。
街灯が消えて、飲んだくれがゴミ箱に躓きながら歩いている。
レンガ造りの共同住宅から届く窓の光を頼りに、俺は酒場前に着いた。しかしすでに酒場の明かりは消えていた。
――首が痛い。少し横になりたいなぁ……。
しかし、この事件は早く尻尾をつかまえないと、霞のように手がかりも消えてしまうように思えた。
俺の知らない何かが、偶然についてしまった傷を隠すように、漆黒の闇に逃げていく息づかいを感じていた。
二階の居住スペースと思われる部屋も、カーテンが閉まっていて中の様子は分からない。酒場の裏手にまわると、さらに闇が深くなり左目でも見えづらかった。
ふと、何かが白く反射した。
水たまりかと思ったが、石畳と砂利の擦れる音がレンガの壁を反響した。
じりじりと動く黒い塊が、俺にゆっくりと近寄ってきている。
俺は火の魔法を指先から発すると、目の前に涎を垂らした黒い犬が鋭い牙を見せつけた。さらに牙の横から、もう一頭の同じ毛並みの犬が唸り声をあげ、下の方で三つ目の頭が狂ったように吠えた。
三つの頭を持つ魔物、ケルベロスだった。
身の危険を感じて、反射的に近くにある木製の箒を手に取る。ケルベロスは地面を蹴り上げて、筋肉の塊をバウンドさせると俺に飛び掛かってきた。
人の頭ほどある大きな犬が、ガードした箒を口に咥えると、体重を乗せて来たので、俺は後頭部からレンガの地面に叩きつけられた。
鼻の先まで迫る三つの頭が、紙のようにひと噛みして箒を砕く。もうひと噛みする直前に手のひらから発火の魔法を発する。大きな火球と閃光が広がると、暗闇だったことが功を奏して、ケルベロスはしばらく何も見えなくなった。
怯えるようにキュンキュンと鳴くケルベロスの下を、風の魔法で自分の体を浮かせて、足からスライディングするように潜り抜ける。と、同時に、いくつかの小石を拾った。
ケルベロスから十分な距離をとって、上体を立ち上がらせ、手のひらの小石を差し出すように前に構える。
俺はその小石に向かって、風の魔法を発した。
ただの小石だが、一つ一つに圧縮した強烈な風流を使えば、レンガにめり込むほどの凶悪な石つぶてになる。
バチバチバチ!
住居の壁や、石畳に小石が突き刺さる。
黒っぽい魔物の血が、影のように壁に描かれると、ケルベロスは力なく倒れた。
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