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「いらっしゃいませ」
出迎えてくれたのはタキシードに身を包んだ一人の好々爺。いかにもな喫茶店のマスターといった雰囲気が漂っている。
「まだやってますか?」
一応確認をする。
「ええ、大丈夫ですよ。お待ちしておりました」
まるで私が予約客であるかのような言い回しだったけれど、店内に客が誰もいないとこをみると、待っていた、と言うのも納得できる。しかし、大丈夫だろうか。少し不安になってきた。
「メニューはないんですか?」
カウンター席に座ってタキシードの彼に尋ねた。マスターはカウンター内から笑顔で返す。
「はい、ございません。当店では一種類のコーヒーしか提供しておりませんので」
「一種類、ですか」
ますます不安になってくる。
「あの、店員さんの姿が見えないんですが……」
「私一人でやらせてもらっています」
「……そうですか」
イージーリスニングも流れていない静かな店内に、コーヒーが創られていく音だけが響いている。初めは不快でもあったけれど、少しすればカチャカチャという音がイージーリスニングの代わりであるかのような心地良さを覚え始めた。妙な感覚だ。
「お待たせしました」
私の前に置かれた一つのコーヒー。不要なものを排除したような澄んだ黒色が、白色のマグカップによって余計に映える。
コーヒーの水面をじっと見ていると、そのまま吸い込まれてしまいそうな錯覚に陥った。慌てて目を逸らして、深呼吸をする。ありえないと分かってはいるものの、それでも冷や汗がでるほどの恐怖を感じた。
私はマグカップに鼻を近づけ、すうっと匂いを嗅いだ。コーヒーの苦みを含んだ豆の香りが、私の鼻腔を刺激しながら体内へと流れ込んでいく。私が毎朝飲んでいたあれは、コーヒーではない、と体中が叫び声を上げ始めた。
身体が震える。おとなしくしろ、と念じても止まらない。
右手をマグカップに近づけて、そっと取っ手に指を掛けた。手の震えがマグカップに伝わって、危うくコーヒーが零れそうになる。
私はひきつった笑顔でマスターの姿を見た。彼はカウンター内で微笑みながらじっとこちらを見つめている。
恥ずかしい。そんな感情が一気に私の腕を動かして、コーヒーを口へと流し込んだ。
衝撃的でありながら、どこか懐かしい。そう表現するのが一番しっくりく
る。苦みとか酸味とか甘味とか。そういう話ではない。
脳を直接刺激するのだ。
「いかがですか?」
「おいしいです」
「それはよかった」
彼はにこりと笑う。私もそれにつられて口角が少し上がったようだ。
「本当に、久しぶりです。こんなにも心が穏やかになったのは」
心の余裕。
私は、いつもそんなことを考えて、自分に無理を強いていたのかもしれない。辛いことを辛いと感じないように、退屈な日々を悲観しないように、私は私自身をだまし続けていたのかもしれない。
そうだとしたら、私のこれまでの人生は一体なんだったのだろう。何の意味があったのだろう。
「意味など、考えるだけ無駄ですよ」
年を重ねた深みのある声が、頭上に降り注いだ。どうやら私は、いつの間にかテーブルに突っ伏してしまっていたようだ。涙は、流れてはいない。
「嫌なら、止めてしまえばいいのです」
そうだろうけれど、簡単なことではない。というよりも、無理だ。人生が嫌
だから止めてしまう。それはつまり、死に向かうことと同義だろう。私に、そ
んな勇気はない。
「死ぬのは、怖いです」
ふと零れた。誰に向かって言ったのか、私は未だ突っ伏したままだ。
「怖いのは、当然です。死は、恐れるためのものなのですから。命あるものは、死を恐れながら生きなければいけないのです」
「ですが、あなたは嫌なら止めればいいと、そう言ったじゃないですか」
「ええ、いいました。ですが、止めることと死ぬことは違います。それはあなたにも分かっているはずです。だからこそあなたは、こうして私のコーヒーを飲んでいるのですから」
「どういうことですか?」
彼は、静かに二杯目のコーヒーを用意し始めた。私が持っているカップは、既に底が見え始めている。
「時を移動することができる喫茶店、ご存じですか?」
「知ってますが、それは物語の中のことです。現実には存在しません」
「確かに。ですが、物語の中において、喫茶店という場所はいかにも神秘的で、人生の狭間のような場所のように描かれています」
「言われてみれば……」
「きっと、生とコーヒーが似ているからでしょう」
「よく、分かりません」
二杯目のコーヒーが、私の前に置かれる。空になったカップをカウンター側にそっと置いて、柔らかく揺れるコーヒーをじっと見つめた。
「苦くて酸っぱくて、時に甘くて。そして、深みがある。これほどまでに生と似通ったものはないでしょう」
「……なるほど」
いまいちしっくりとはこないけれど、妙な説得力はある。老齢ゆえになのかは判断しきれないが、経験値に差があるのははっきりと感じられた。私にとってコーヒーは、ただの飲み物でしかなかったけれど、マスターにとってはその限りではないらしい。
「それで、この二杯目のコーヒー。私が注文しわけでもないのに用意してくれたこのコーヒー。これを飲めば、何か変わるのでしょうか?」
「変わります」
なんとなくそう思っただけだった。彼の言葉とこの喫茶店の不思議さが、現実離れした考えを誘発しただけのことだったのだけれど、現実の範囲は私の想像以上に広大だったようだ。
それに比べて、私は何ともちっぽけ。
どの口が現実を語っているのだろう。宇宙についても知らない。世界についても知らない。ましてや、日本についても知らない。自分のいる世界すら知らないちっぽけな一人の人間が、一体何をもって現実などとほざいているのか。
笑ってしまう。
時を移動することが出来る喫茶店は、物語の中のことだと言ったが、それもどうなのだろう。現実とは所詮、自分の脳内で形成された範囲内でしかない。それはもう、図り切れないほどにちっぽけなのだ。
「生転換。そのコーヒーを飲みながら新たな生を想像することで、あなたは新しい生を歩むことが出来ます」
「それはつまり、人ではなく別の生物になれる、ということですか」
「その通りです。しかし、無限ではありません。回数に制限がございます」
「何回ですか?」
「三回です。ほら、諺にもあるではございませんか。【三度目の正直】というものが」
「【二度あることは三度ある】もありますけどね」
彼が声を出して笑う。私も、軽く口元を緩ませた。
「ああ、そうでした。もう一つお伝えしなければいけないことが」
「なんです?」
「記憶に関してです。生転換する際、以前の生での記憶をそのままにしておくか、それとも完全に消去してしまうか、のどちらかを選ぶことができます。個人的には以前の記憶など必要ないようにも思うのですが、どうなさいますか?」
「そうですね。記憶は、そのまま残しておくことにします」
マスターは目を丸くして、ちょっとばかり驚いたような様子を見せた。
「いいのですか?」
「はい。私のこの人間としての生が、どれほど惨めで無意味なものだったのかを明確に感じてみたいんです。そっちの方が、新しい生をより楽しく過ごせる気がするので」
「なるほど。そういう考え方もございますか。分かりました、では――」
ぽちょん、という音を立てながら、私の目の前にあるマグカップの中に角砂糖が投入された。その行為がどういったものなのか定かではないが、ただ一つはっきりとしているのは、私はブラック派だということだ。
しかし、まあ。今はそんなことどうでもいい。
私は、じっとコーヒーを見つめる。これを飲めば、私は人間ではなくなる。マスターがそう言っただけではあるけれど、本当にそうなのだ、と私の心が信じてしまっている。
いや。ただ、信じたいだけなのかもしれない。
人間を止めるなんてことは出来ない、と頭では分かっていても、心がその事実に背いて何かに縋ろうとしているのかもしれない。
けれど、それで結構。既に私に余裕などなくなっているのだ。縋れるものがあるのならば、コーヒーにでも縋りたい。今の時代に藁など、あまりないだろうし。
さて、頭の中に思い描くとしよう。そうだな。猫なんて、いいかもしれない。自由気ままで我が道を生きている、そんなイメージがある。どちらかというと犬派ではあるけれど、自分がなると考えると犬よりも猫の方がいい。
右手をマグカップに伸ばして、そっと取っ手を持った。今度は震えていない。しっかりと、私の手はマグカップを握っている。新たな生を掴み取るように力強く。
口に運んで、コーヒーを流し込む。味は、さっきと変わらない。美味しいコーヒーだ。
脳内で猫が走り回る。頭に茶色の変な模様の入った、黒っぽい毛色の猫。あまり綺麗ではない。顔も、良く言ってブサカワ、というところだろう。
「なんだか、眠たくなってきました」
「そうですか。抗わなくて、大丈夫です。そのまま、身を委ねて下さい」
次第に視界が暗くなる。瞼が落ちきているのだと、はっきり分かる。マスターは抗わないように、と言っていたが抗おうにも身体が動かない。
意識が混濁していく。夢の世界へと、ゆっくり誘われていく。
現実なのか、夢なのか。夢なのか、現実なのか。
もしかしたら私は、現実から夢の中へと行くのではなく、夢から現実へと向かっているのかもしれない。
考えがまとまらなくなってくる。思考が止まる。それでいい。考えることは、無意味なのだ。身を委ねる。思い描く理想へと。成りたい自分へと。
私は――どこへ向かうのだろうか。
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