猫になった男

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 目を覚ますと、私は外にいた。道幅はそれなりに広く、左右には高い壁がある。車の姿も見えないので、どうやら道路ではないらしい。私は周囲を見回す。薄暗い。高くそびえる壁を目で追っていくと、やがて青い空が顔を出した。    前方に視線を移す。途中で壁は途切れていて、その先には車も見えるし、人が歩いている姿もある。どうやらここは、路地裏のようだ。    私は、一旦深呼吸した。    そして、自分の手を見つめた。    私の掌には、これまではなかった可愛らしい肉球がついていた。    下腹部に力を込めてみる。腰のあたりの筋肉が動いている感覚があって、尻尾が揺らめいているのだと感じ取れた。    私は――猫になった。    半信半疑ではあったけれど、私はあのカフェでコーヒーを飲むことで猫となり、経緯は定かではないが、この薄暗い路地裏で目覚めたのだ。    鼓動が速くなる。新たな生を得て、感情が喜びに満ちているためだろうか。いや、違う。猫になったことで、人間の時よりも脈拍数が上がり、鼓動が速くなっているのだ。    四つ足のこの態勢も、意外にしっくりくる。人間の時ならばひどく疲れる態勢だ。    ゆっくりと歩いてみる。歩けた。生まれて初めての四つ足での歩行だったけれど、本能が理解しているのか、戸惑うこともなく歩き続けることが出来た。    ふさふさの毛。少しくすぐったいような感覚がある気もするが、いずれ慣れるだろう。    夢でも見ているようだ。私は、人を止めることが出来た。一生変えられるはずのない生を、変えることが出来た。    心が軽い。    飛び跳ねてしまうと、そのままどこまでも飛んで行ってしまいそうだ。風船のように、どこまでも。    呼吸が荒い。興奮しすぎている。心臓がばくばくと音を立てながら、更に速く鼓動している。落ち着かなければ。    私は、再び深呼吸をして冷静さを取り戻す。身体に空気が入ってくる。それさえも新鮮。三十年以上も味わってきたはずの感覚を新鮮に感じるだなんて、幸福としか言いようがない。    とりあえず、路地裏を出てみることにした。薄暗くて、正直あまり雰囲気の良いと言える場所ではないので、長居は不要である。猫としては良い環境なのかもしれないけれど、それを実感するにはまだ早いようだ。    肉球が地面を踏みしめる。初めての感触。どれだけクッション性の高いスニーカーを履いても、これには敵わないだろう。    路地裏を出ると、わずかな陽の光が目にダイレクトに飛び込んできて、少々くらっとした。人間であれば大して問題にはならないけれど、猫にはどうも眩しすぎるようだ。    通り過ぎていく人たち。まるで巨人だな、と思った。映画やアニメに出てくる巨人とは違って動きは緩慢ではなく、気を付けなければ踏まれてしまいそうになる。こんな巨体に踏まれてしまえば、ただでは済まない。心ではなく、身体自体が潰されてしまうことになる。    私はなんとか雑踏を抜けて、とある公園へと辿り着いた。一休みのつもりで立ち寄ったのだけれど、思えば、私はどこに向かおうとしていたのだろうか。人間だったころの家に帰ったところで鍵もないし、そもそも扉を開けることもできない。今はまだ日が昇っているから大丈夫だが、あと数時間もすれば日は沈み夜がやってくる。野宿はさすがに厳しいだろう。    猫になったばかりである。人間が脅威に成り得ることは分かったけれど、まだ他にどんな脅威があるのか分からないのだ。そんな状況で一夜を外で過ごすというのは、非常にリスキーな行為だ。どこか、室内で過ごした方が安全性は高くなるだろう。しかし、それも適当に決めるわけにもいかない。室内に存在しているもの次第では、危機的状況に陥りかねない。猛犬でもいようものなら、たちまち私の新しい生は幕を閉じることになってしまう。開幕から閉幕での時間が異常に短い、愚作の劇だ。    はてさて、どうしたものか。私がこれからどこに向かえばいいのか漠然とではあるが決定したとして、だが、そのための繋がりがない。今の私は、孤独なのである。身を寄せる場所も、相手もいない。まあ、相手の方は人間の時もいなかったけれど。 「おい、お前さん」  私が唸りながら考え込んでいると、不意に上空から声が降り落ちてきた。私は、はっ、として見上げる。滑り台の上に四つ足で立つ一匹の白猫が、私を見下ろしていた。
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