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彼女との生活が始まって、一週間が経過した。彼女は自己紹介として自分の名前を名乗ってくれたが、どうにも照れ臭く未だに一度も彼女の名前を呼べたことがない。まあ、呼んだとしても彼女には【ニャー】と聞こえるのだろうけれど。
彼女は私のことをニャン吉と呼んでいる。ネーミングセンスはいまいち良い方ではないようで、しかしそれでも私は気に入っている。彼女がつけてくれた名前だ。以前の名前よりずっといい。親には申し訳ないけれど。
彼女は日中会社に行っているので、私は基本一匹で過ごしていた。過ごしていた、と言ってもほとんど寝ていたのだが。猫になったせいなのか睡魔がよく襲ってくるようになり、気づけば眠ってしまっているということが頻繁にあった。彼女の匂いが満ちている部屋で眠るのは、今まで味わったことのない至福の時間だった。
夜になり彼女が帰ってくると、私たちはよく遊んだ。彼女が買ってきたネズミのおもちゃを追いかけまわしたり、尻尾を揺らめかせ彼女がそれをゆったりと見つめていたり。なんでもないような時間が、とても速く過ぎ去っていった。翌朝になって彼女が家から出ていくと、無性に泣きたくなった。
私は猫で、彼女は人間だ。これは決して、男女間の関係ではない。あくまで人とペットの関係。それを忘れてはいけない。私は、人間ではないのだから。私は彼女にとって、猫なのだから。
だが、猫になったことを後悔しているというわけでもない。猫になっていなければ、こんな幸せな生活を送れていなかったわけなのだから、むしろ猫になって大正解だと思っている。
遊び疲れて、互いに休息をとるかのように静かになる場面が時折ある。そんな時、私は人間だった頃を思い出して今の自分と比較してみたりしているのだけれど、彼女は遠いところを見つめているような、呆けた表情を見せることがある。
人間社会の中で生きようと思えば、様々な問題があって、しがらみに囚われたり、謂れのない誹謗中傷を受けたりすることもあるだろう。彼女は優しいがゆえに、きっと私なんかよりも重く受け止めひどく苦しんだりするのだ。
心配になって、彼女に声をかける。彼女は、はっとしてこちらに顔を向けて、笑顔を見せてくれる。
違う。
私は彼女の笑顔を見ていたいけれど、そんな造られた笑顔を見たいわけではない。心の底から、無邪気に笑っている彼女を見ていたいのだ。
もっと声をかける。
彼女は寂し気な目のまま口角だけを上げて「お腹空いたの?」と言う。私が空腹かどうかなどどうでもいい。彼女の心に穴が空いていないかどうかの方が大事だ。私なんかよりも、彼女の方が大切だ。
「今日ね、久しぶりに彼に会うんだ」
夕食を終え、彼女がぽつりと言った。私は思い出す。彼とは、会社にいたあの新入社員のことだろう。私が会社から追い出され、その席に代わりに座ることになった彼。嫌な思い出ではあるが、別に恨んだりなどはしていない。会社での出来事は、彼に非などないのだから。あれは、なるべくしてなったことなのである。
彼女は窓の外を眺めながら、右手の薬指につけている指輪を擦っている。二人がお揃いでつけていた指輪。会社で見た時よりも、鈍った光を放っているように見えた。
「仕事がね、忙しいらしいんだ。だからね、最近会ってもらえてなかったの。会社では姿は見るんだけど、会話する暇なくて。たった一週間会ってなかっただけなんだけど、すごく久しぶりな感じがするよ。ああ、嬉しいけどちょっと緊張しちゃうな」
恥ずかしそうに頬を赤らめる彼女。まるで、お手本のような恋する乙女だ。
しかし、よかった。
彼女が時折見せていた寂しそうな目は、恋人に会えない苦悩からだったのだろう。恋人への想いが、彼女をぐるぐる巻きにして締めつけていたのだ。
彼が今夜、彼女に会いに来る。それで、彼女の重く沈んだ心は浮き上がり、解放されることだろう。
もしかしたら私は、会えない彼氏の穴埋め役だったのかもしれない。そう思うと少し寂しい気もするけれど、私の存在が彼女の心を支えていたのならば、なんの文句もない。
私は、猫だ。彼女の横に立って、一緒に歩んでいくことを望んではいない。彼女を、少しでも楽にさせてあげられれば、私は私として生きていくことが出来る。
生きている意味を、見出すことが出来る。
ガチャリ、という音が聞こえた。その音に続くように、低い男性の声が部屋に飛び込んでくる。
「おーい、来たぞー」
その声に反応して、彼女は飛び上がるようにして立ち上がり、玄関に走って行った。
嬉しそうだ。私も、嬉しくなってくる。
玄関の方で何かしら会話をしているのだろう声が聞こえて、少しすると彼女と一緒に彼がリビングへと入ってきた。私は二人の邪魔をしないように、隅の方に座り二人をじっと見つめていた。
「なに? 猫なんて飼ってたっけ?」
「ううん。最近拾ったの。すごく寂しそうだったから」
「ふーん」
彼はくたびれているようだった。彼女も仕事が忙しい、と言っていたし、私がいなくなってから彼の仕事量は増えているようだ。私はもう彼とは関係のない猫だけれど、それでも同じ会社に勤めていた新入社員の彼が頑張っている姿は、素直に褒めてあげたいと思った。
「とりあえず、風呂入るわ。タオルと着替え、脱衣所に置いといて」
「あ、う、うん。分かった。ゆっくり入ってきてね」
背を向け風呂場へ向かう彼。彼女は小走りで別の部屋に言って、彼の言われた通りの物を用意し始めた。
「おい! なんだよ、これ!」
彼の怒鳴り声が響いた。ガタン、と音が鳴って、急いで小走りをする足音が聞こえる。
「なんで風呂場に猫の毛があるんだよ!? おい!」
「あ、ご、ごめん。さっき、お風呂で洗ってあげてたから」
「はあ!? なんで猫なんか風呂場で洗ってんだよ。意味分かんね。マジできもいわ。はあ、もう入る気なくなった」
「ご、ごめんね」
「俺が来るの分かってたんだから、少しは考えろよ。もういい、着替え」
「う、うん、すぐ持ってくる」
「まだ用意出来てないのかよ」
どたばたと、家の中が騒がしい。苛立っている彼に怯えながら、彼女は家の中を駆け回っている。
助けてあげたい。そう思うけれど、これは二人の間のことだ。仕事に疲れて苛立っている彼と、それに振り回される彼女。ありがちな構図。
そこに私が口を挟んでもいいものなのか。もしも彼が彼女に暴力を振るうようなら、私は身を挺して彼女を助けるつもりではいるが、そこまで過激にはなっていない二人のいざこざに入っていくのも、余計なおせっかいというものではないだろうか。
それに、彼が怒り出した原因は私だ。平然と彼の前に私が姿を見せたら、火に油を注ぎかねない。怯えている彼女を見ているのはかなり心苦しいけれど、もう少し我慢していることにしよう。
「飯は?」
リビングの座椅子に座って彼が言う。
「用意してるよ。陽介君の好きなから揚げにしてみた」
「そっか。腹減ったから、早く持って来てくんない? あと、ビールも」
「あ、ごめん。ビールは用意してないや」
「はあ。まじでなんなの、お前」
「ごめんね……」
下を向いたままキッチンへ向かう彼女。彼の顔面を引っ掻いてやりたい衝動に駆られるが、我慢だ。私が二人の関係を壊すわけにはいかない。
「おい、猫。おい! 俺が呼んでんだから、返事しろよ」
「ニャン吉、っていう名前だから。名前で呼んであげるといいかも」
「面倒くせーな。おい、ニャン吉!」
嫌ではある。しかし、ここで返事をしなければまた彼女が責められかねない。
「ニャー」
「はは、ニャーだってよ。何語だっての」
愉快そうに笑っている。私は、彼のことをよく知らない。あの時会社で会った以外に、彼との接触は一度もなかった。だが、彼女が選んだ男性である。今は疲れて苛立っているようだけれど、本当は心根の優しい青年なのだろう、と思う。私の存在が彼の心も癒せるのなら、それもまた嬉しいことだ。彼女も早く、本来の彼に戻って欲しいだろうし。
「ニャン、ニャーン」
「んだよ、猫。俺はお前の餌なんて持ってねえぞ」
軽快な笑い声。彼につられてか、キッチンからも微笑が聞こえる。
彼女が料理を運んできた。テーブルの上にから揚げやご飯を盛ったお茶碗を置いて、彼に提供する。
二人だけの空間が出来上がる。どうやらあの二人には、私の姿は既に見えなくなっているようだった。先ほどまでの険悪な雰囲気とは一遍、ほのぼのとして温かみを持った雰囲気が、彼女たちを包み込んでいる。
私は、役割を果たしたのだ。今だけは、二人の目に私が映っていなくても構わない。久方ぶりの二人の時間などである。存分に堪能すべきだろう。
私はゆっくりと歩き、リビングを出ていく。二人の邪魔をしないように別室に行こうとして出たわけだけれど、寝室にいるわけにもいかない。私も大人だ。互いに感情を寄せ合う大人の男女が、愛を深めるために何をするのかは十分に理解している。
だから。私は、ここでいい。彼女との思い出が強く残る、この風呂場で。今日だけは、ここでじっとしていよう。湿っぽくて少し寝ずらいけれど、そこは我慢だ。私が我慢をすれば、二人は幸せになれるのだ。まあ、後日お礼として、いつもよりも高価な夕食を頂きたいものではあるけれど。
私は一度「ニャー」と鳴いて、風呂場の中で目を閉じた。壁にぶつかり跳ね返る自分の鳴き声を耳にしながら、私は静かに眠った。
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