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かさり、と渇いた音がめくられた。動くゆびさきはひかりを含んで行間を捕まえる。詩乃が持っている文庫本は、僕が高校の時に買ったもので、映画化されている。地の文がくどくて、状況説明が多くて、主人公は弱虫で、ちっとも前に進まない。
けれど、我慢して読み進めると、中盤からどんでん返しが何度もくる。読みやすさで言えば、中の下。それなのに、最後まで読み進めてしまうのは、ひっくり返る何かを期待してしまうからだ。期待は希望で、嫌なことを我慢していれば、後で何かいいことが起こるのではないか、というポジティブシンキング。最初は悪くないと思っていたけれど、最近、それは単なる勘違いだ、と気づいた。
自分から動かない限り目的は果たせない。
ポイントは、動くタイミング。
ときおり、アパートの横を電車が通り、窓がガタガタと居心地の悪い声を出す。その窮屈な音は、夜の匂いを連れ、詩乃の寝ぐせを揺らす。僕の中で、もう日常の一部になっている。
「この下宿って、築何年なの?」
と、彼女は寝そべったまま、またページをめくった。
「うーん、確か……」
ひい、ふう、みい、と、読んでいた本から顔を上げる。本を開いたまま、芝色の畳へ本を伏せる。小指を3回折り曲げた。
「つまり、三十年弱?」
ただいま、と上の階から穴吹先輩の声がした。詩乃はすくっと立ち上がる。僕はわざと彼女から目を逸らす。次にスマホが震え、メッセージを見た彼女が満面の笑みを浮かべると知っているから。
「浪、行くね」
「おー」
読んでいる本から顔を上げず、適当な返事をする。
詩乃はちっとも荷物が入らない華奢な鞄から小さな鏡を出して、ぴょんと跳ねた寝ぐせを撫でつける。そして、コーラル色のてかてかした天ぷらを食べたあとみたいに見えるグロスだか、リップだか、取り敢えず、艶を塗りつける。
扉が閉まる音がして、顔を上げた。
外玄関をカンカンと鳴らして登ってゆく音がして、部屋の扉を叩く音が続く。その後は、詩乃が甘えたように先輩の名前を呼ぶ。そして、返事をする先輩の掠れた低い声に、扉が閉まる音。棚の上に置いてあるノイズキャンセリングイアフォンを嵌め、先ほど彼女が読んでいた本がないことに気づく。
「またか。黙って持って行ってもバレバレ」
わざわざ声をかける泥棒はいないか、と自嘲し、音楽アプリの音量を上げた。
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