それはぜんぶ、寝ぐせのせい

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*  詩乃と知り合ったのは、穴吹先輩と僕の下宿先が一緒だったからだ。全国にチェーン展開している居酒屋が終わるのは23時頃で、そこで先輩はバイトをしていた。この辺りには漫画喫茶もコンビニも、自販機の一つすらない。街灯の灯りで本を読んでいる彼女を見かけたとき、あの子だ、と思って、つい、声を出してしまった。 「わたしのこと知ってるの?」  利発そうな瞳が僕に向く。きまりが悪かった。 「一応、同じ大学に行ってる」 「そうなんだ。同じ一回生?」 「うん、そう」 「良かった。タメ口で話しちゃったから、いいのかなって途中で思ってたんだ」  ふわっと笑って、話途中で髪を耳にかけた。こちらを伺うように見上げている。 「同じ講義とってたっけ?」 「いや。講義は被ってない。この前、穴吹先輩と揉めてたのを見てたから、一方的に知ってる」 「あー、見てたんだ?」 「うん、見てたって言うか、勝手に始まった」 「……名前は?」 「坂城浪(さかきろう)」 「どんな字?」  彼女は小さなポーチ鞄を開け、ボールペンを取り出した。持っていた文庫本を差し出し、最後のページを開く。古本なのか、誰かの名前があった。もしかして、これも誰かのものだったのだろうか。 「ここに書いて」 「いや、誰かの名前書いてるし、……スマホで見せるよ」  見せると彼女は納得したのか満足そうに笑った。 「浪って、めずらしいね」 「よく言われる。……穴吹先輩、待ってるの?」 「うん、待ってる」 「合鍵もらってないんだ?」  口にして、部外者が言うことじゃないと、すぐに反省。しかし彼女は、ここ合鍵作れるの?と目を丸くした。 「……そう言えば、入居するとき、古すぎて作れる職人がいないから、だいぶお金を出さないとスペアを作るのが難しいって言ってたな」 「なーんだ。じゃあ、期待させたお詫びしてくれる?」 「お詫び? そんな無茶振りある?」 「あるある」  女の子っぽい明るい声でそう言えば、みんな願いを聞いてくれる訳ではないが、彼女は僕が断るとは微塵も思っていないよう。   「何?」 「先輩が帰ってくるまで、浪の家で時間潰していい?」  それって別の男の部屋で、彼氏を待つってことか。 「……なぁ、それって、あんまり良くないんじゃ」 「なんで」 「うーん、倫理的というか一般的に? ってか、空気読めない感じ?」 「倫理も一般論もよく知らないし、空気は読めてないってよく言われる」 「あっそう。……じゃあ、穴吹先輩がいいよって言ってくれたら、僕の部屋で待ってもいいよ」  穴吹先輩が常識人であることを祈る。僕がそう言うと、彼女は一旦退いてくれた。  ああ良かったと安心していたのも束の間で。  次の週末には、保護者同伴で彼女はアパートのーーしかも、僕の部屋のーー前で立っていた。 「浪くん、で合ってる?」  背の高い手足の長い穴吹先輩の顔をちゃんと見たのは久しぶりで、やっぱり整った眉と穏やかな口調だなと思った。寝ぐせのような髪型はおしゃれパーマで、前髪は重めで。ゆるいような、ぼんやりしているような表情。周りの環境に順応しているようで、実はすごくマイペース。興味のあることしか記憶に残さない、高校の頃から先輩はそうだった。  だから、僕の存在は今、認知されたのだろう。 「はい、合ってます」 「もし良かったら、俺のバイトが終わるまで、詩乃を部屋に入れてくれないかな?」 「……あの、本気ですか?」 「うん、本気。ここら何にもないし、暗いところで女の子が待ってるのも危ない」 「同世代の男の家も危ないって思いませんか」 「……こうやって、急な頼み事でも話を聞いてくれて、常識的な対応をしてくれるから、君は大丈夫かな、と思ってるんだけど」 「思ってるんだけど、と言われても」  横でニコニコと笑っている詩乃は、ぺこりと頭を下げた。 「お世話になるお礼に」  と、差し出したのは、焼きそばに薄焼き卵を乗せたオムそばだった。チェーン店だが、地方の店員は独自に洋メニューを提案することができ、本部に採用されると、お客さんに出すこともできる。もちろん、社員やバイトの賄いとしてもリクエストできる。僕もバイトをしようと思って、調べた。面接を受けようとしたところ募集は締め切られたから、接触するのは下宿先に方向転換した。 「バイトの賄い。この店、知ってる?」 「あー、はい。友達と行ったことあります」  何も言わず翔也を連れて何度も行ったことがある。厨房で働いている穴吹先輩がメニューを受けにくることはまれで、そのを望んでいたけれど、こんな形で叶うとは。  僕はそれを両手で受け取った。 「浪くんが協力してくれたら、俺は助かるけど、どうかな」  どうかな、と言われても。  高校の時から憧れている先輩が頭を下げた。僕が一方的に見ているだけだったのに、目の前に寝ぐせをカバーしたようなお洒落なパーマ。  気づけば、いいですよ、と答えていた。
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