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詩乃と知り合ったのは、穴吹先輩と僕の下宿先が一緒だったからだ。全国にチェーン展開している居酒屋が終わるのは23時頃で、そこで先輩はバイトをしていた。この辺りには漫画喫茶もコンビニも、自販機の一つすらない。街灯の灯りで本を読んでいる彼女を見かけたとき、あの子だ、と思って、つい、声を出してしまった。
「わたしのこと知ってるの?」
利発そうな瞳が僕に向く。きまりが悪かった。
「一応、同じ大学に行ってる」
「そうなんだ。同じ一回生?」
「うん、そう」
「良かった。タメ口で話しちゃったから、いいのかなって途中で思ってたんだ」
ふわっと笑って、話途中で髪を耳にかけた。こちらを伺うように見上げている。
「同じ講義とってたっけ?」
「いや。講義は被ってない。この前、穴吹先輩と揉めてたのを見てたから、一方的に知ってる」
「あー、見てたんだ?」
「うん、見てたって言うか、勝手に始まった」
「……名前は?」
「坂城浪」
「どんな字?」
彼女は小さなポーチ鞄を開け、ボールペンを取り出した。持っていた文庫本を差し出し、最後のページを開く。古本なのか、誰かの名前があった。もしかして、これも誰かのものだったのだろうか。
「ここに書いて」
「いや、誰かの名前書いてるし、……スマホで見せるよ」
見せると彼女は納得したのか満足そうに笑った。
「浪って、めずらしいね」
「よく言われる。……穴吹先輩、待ってるの?」
「うん、待ってる」
「合鍵もらってないんだ?」
口にして、部外者が言うことじゃないと、すぐに反省。しかし彼女は、ここ合鍵作れるの?と目を丸くした。
「……そう言えば、入居するとき、古すぎて作れる職人がいないから、だいぶお金を出さないとスペアを作るのが難しいって言ってたな」
「なーんだ。じゃあ、期待させたお詫びしてくれる?」
「お詫び? そんな無茶振りある?」
「あるある」
女の子っぽい明るい声でそう言えば、みんな願いを聞いてくれる訳ではないが、彼女は僕が断るとは微塵も思っていないよう。
「何?」
「先輩が帰ってくるまで、浪の家で時間潰していい?」
それって別の男の部屋で、彼氏を待つってことか。
「……なぁ、それって、あんまり良くないんじゃ」
「なんで」
「うーん、倫理的というか一般的に? ってか、空気読めない感じ?」
「倫理も一般論もよく知らないし、空気は読めてないってよく言われる」
「あっそう。……じゃあ、穴吹先輩がいいよって言ってくれたら、僕の部屋で待ってもいいよ」
穴吹先輩が常識人であることを祈る。僕がそう言うと、彼女は一旦退いてくれた。
ああ良かったと安心していたのも束の間で。
次の週末には、保護者同伴で彼女はアパートのーーしかも、僕の部屋のーー前で立っていた。
「浪くん、で合ってる?」
背の高い手足の長い穴吹先輩の顔をちゃんと見たのは久しぶりで、やっぱり整った眉と穏やかな口調だなと思った。寝ぐせのような髪型はおしゃれパーマで、前髪は重めで。ゆるいような、ぼんやりしているような表情。周りの環境に順応しているようで、実はすごくマイペース。興味のあることしか記憶に残さない、高校の頃から先輩はそうだった。
だから、僕の存在は今、認知されたのだろう。
「はい、合ってます」
「もし良かったら、俺のバイトが終わるまで、詩乃を部屋に入れてくれないかな?」
「……あの、本気ですか?」
「うん、本気。ここら何にもないし、暗いところで女の子が待ってるのも危ない」
「同世代の男の家も危ないって思いませんか」
「……こうやって、急な頼み事でも話を聞いてくれて、常識的な対応をしてくれるから、君は大丈夫かな、と思ってるんだけど」
「思ってるんだけど、と言われても」
横でニコニコと笑っている詩乃は、ぺこりと頭を下げた。
「お世話になるお礼に」
と、差し出したのは、焼きそばに薄焼き卵を乗せたオムそばだった。チェーン店だが、地方の店員は独自に洋メニューを提案することができ、本部に採用されると、お客さんに出すこともできる。もちろん、社員やバイトの賄いとしてもリクエストできる。僕もバイトをしようと思って、調べた。面接を受けようとしたところ募集は締め切られたから、接触するのは下宿先に方向転換した。
「バイトの賄い。この店、知ってる?」
「あー、はい。友達と行ったことあります」
何も言わず翔也を連れて何度も行ったことがある。厨房で働いている穴吹先輩がメニューを受けにくることはまれで、そのまれを望んでいたけれど、こんな形で叶うとは。
僕はそれを両手で受け取った。
「浪くんが協力してくれたら、俺は助かるけど、どうかな」
どうかな、と言われても。
高校の時から憧れている先輩が頭を下げた。僕が一方的に見ているだけだったのに、目の前に寝ぐせをカバーしたようなお洒落なパーマ。
気づけば、いいですよ、と答えていた。
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