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「……その本、」
その図々しさは見過ごせなかった。
「僕の本だけど」
「……餞別にくれたっていいじゃん。……それに、浪は、わたしが振られることを望んでいたんでしょ?」
「理由にならないから返せ。それに、……人のモノに手を出したら、おんなじ事、されるって分かんない?」
「え。何?」
声を尖らせ、詩乃は怯えたように僕の顔を見た。
「藍先輩もそれ言ってた。どういう意味?」
「そのままの意味」
「え、訳がわからない。……浪って何なの?」
「実は……、藍は僕の姉だ。親が離婚しているから、噂で聞く程華々しい家族ではないけど。苗字も違うし、僕もテニスの情報が流れてるだけで。高校時代から、穴吹先輩と姉のカップルを純粋に応援していたけど、上手くいかなくて、残念に思ってる」
詩乃の顔がどんどん青ざめてゆく。パニックに陥ったように両手を頭にやった。
「浪、騙してたの?」
僕は何でもないように彼女の頭を見た。いつも寝っ転がって本を読む彼女は、髪が乱れている。いくらこの時の為とは言え、不快な光景と嫌いな人を相手にするのは疲れる。
「ひとのせいにするな。どうしても理由が欲しいなら、その変な寝ぐせのせいにすれば?」
「ははは。寝ぐせって、おかしなことを言うね。それに浪くんが藍の弟だって知らなかった。言ってくれれば良かったのに」
同意した穴吹先輩は、自分は何一つ関係のないことだと、爽やかに笑っている。
僕はおもむろに金魚鉢に手を伸ばした。稚魚は予定通り繁殖していて、縦横無尽に動き回っている。水の中では自由だけれど、鉢の中からは誰かが出さない限り出られない。つまり、何か行動を起こさない限り、現状はそのまま、だということ。
「先輩、約束通り、稚魚あげますね」
そっと鉢を持ち上げた。
先輩はじゃあこれ貰っていくよと、素直に両腕を伸ばす。
「何? だから、浪はわたしから先輩を盗り返したってこと?」
「いや、結果的にそうなっただけ」
「一番ひどい」
詩乃は本を僕に投げ捨て、バタバタと走り去った。
「あー、浪くんも男のひと、恋愛対象?」
「そうですね。その……元彼女の弟とか嫌かもしれないですけど……」
僕の腕の金魚鉢でメダカがすいすい泳ぐ。
「いやー、驚いてるけど、悪い気はしないよ。その、これからも仲良くしてくれたら嬉しい。メダカもありがとう」
「はい。先輩のためなら問題ないです」
ゆっくりと頷いて彼を見た。
元彼女の弟で、今も唐突に詩乃から僕に乗り換えたというのに、平気な顔をしている。罪悪感が欠如している先輩の浮気癖は根っからで、腐っている。
でも、今まで待った甲斐があった。
やっと、僕の番だ。
持っていた金魚鉢を彼の頭の上に掲げる。ひっくり返すと先輩は、なんで、と驚くだろう。理解できず、怯えるかもしれない。ひとの心が分からない、時間泥棒にこちらが奪われた時間の尊さなど説いてやる必要はない。
そして、ずぶ濡れに言い放ってやろう。
先輩の寝ぐせが気になっただけですよ、と。
―END―
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