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何処からか男性の悲鳴が聞こえた直後、女性の聴覚と触覚は消えていき……
最後に見えたのはスマートフォンの画面、銀髪赤目の青年が彼女に向けて手を差し伸ばしているイラストだった。
(落ちる―!? 嫌だ! まだ私は隠しキャラのノーマルエンドしか見ていないわ! トゥルーエンドもハッピーエンドもバッドエンドも見ていない! 楽しみにしていた期間限定シークレットイベントをやっていない! こんなに悔いが残る最後なんて)
「嘘よっ!」
閉じていた目蓋を勢いよく開くと同時に、聞こえた自分の叫び声で混濁していた意識が覚醒する。
早鐘を打つ心臓の鼓動がはっきりと感じて、息苦しさで胸元を押さえた手の感触から今の自分が着ている服は、ブラウスではなく胸元が開いてレースが付いている服を着ていることに気が付いた。
「此処は……」
口から出た声も全く違う他人の声。
自分の声はもっと低くなかったか。
不思議に感じて、唇に触れれば荒れてかさついていた唇とは違った、潤いと張りのある唇の感触がした。
「わたくしは、何をしていたの?」
“私”ではなく“わたくし”と、違和感なく言った唇が震える。
(わたくし、どうして床の上に倒れていたの? 此処は何処? 電車から降りて改札口に向かっている途中、階段から落ちたのに……あれ? 電車って、改札口って何?)
“わたくし”の記憶には無い改札口、スマートフォンという単語。
馬車とは違う乗り物、電車という名の乗り物には乗ったことは無いはずなのに。
硬い石の階段を駆け上がるなんて、幼い頃以外はしたことはなかったのに。
(これはいったい? 気持ち悪い!)
突然、脳内に夢の中に出て来た黒髪黒目の女性、今の“わたくし”以外の生々しい記憶が混じり合っていき、視界がぐにゃりと歪む。
流れ込んで来るもう一人の自分の記憶、その情報量の多さに耐え切れず目蓋を閉じれば、後頭部と全身に鈍痛が走った。
「い、痛い」
痛むこめかみに手を当てて閉じた目蓋を開き、薄暗い部屋の不自然なくらい高い天井を見上げた。
「私は、誰? 私は、わたくしの名は、アデライン……アデライン・ベリサリオ?」
がばっ!
「うぐっ」
床に手をついて勢いよく上半身を起こしたアデラインは、眩暈と後頭部から腰に向かって走り抜けた痛みで呻いた。
震える両足を踏ん張らせて立ち上がり、部屋の隅に置かれたドレッサーの鏡を覗き込む。
「この顔は……君恋の意地悪な令嬢アデラインと一緒だわ」
鏡に映っているのは、薄暗い部屋の唯一ある窓、天井近くにある小窓から射し込む月明かりを反射して輝く光の加減で藤色が混じったように見える銀色の髪、瑠璃色の瞳を持つ整った顔立ちの女性だった。
震える両手を両頬に当てて鏡を見詰め、ハッとしたアデラインは大きく肩を揺らした。
身に纏っている水色のドレスにも見覚えがあったのだ。
「嘘よ! 何てことなの!」
悲鳴に近い声を上げたアデラインの表情は、電車の改札口に向かう階段を駆け上がっていた“私”が夢中になっていた、アプリゲーム“君と紡ぐ恋の魔法”のヒロインを虐める意地悪な公爵令嬢、アデライン・ベリサリオが驚いた時と同じ顔。
婚約者の王太子に近付くヒロインを虐め、毒入りのお茶を飲ませようとしたアデラインが断罪される場、離宮で開かれたお茶会で彼女が着ていたドレスと同じものだった。
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