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「次の西洋美術史、休校だって」
「まじで。待ってた意味」
携帯に来ていたメッセージを莉里にみせると、莉里はおおげさになげいた。西洋美術史の授業までが空きの時間だったので、私と莉里は時間つぶしに洋画実習室前のスペースでおやつをつついていたのだけど、無駄になったようだ。
「大丈夫かな、先生」
「先週から、なんか調子悪いっていってたもんね。まぁ、でも大丈夫でしょ。もっとおじいちゃんの先生なら心配するけど、西洋美術史の先生若いし元気じゃん」
確かにまだ50の手前、趣味は山のぼりの教授は生徒より元気な人だけど。そういう人こそ逆に思ってもないような病気にかかったりしないだろうか。コーヒーを飲み干したマグを見つめながら頭の中では良くない想像がふくらむ。
「顔やばいって。心配しすぎ。西洋美術史の先生なんて、週に一回会うだけじゃん。生徒も百人ぐらいいるし、向こうはこっちなんて覚えてないんだから、そんなほぼ他人にそこまで心配してたら疲れるよ。先生の方だって気つかうでしょ」
黙り込んだ私の背中を莉里がたたく。
「そうだね」
とはいってみるけど、自分でも自分の声が納得してないことはすぐわかる。
莉里のいうことはわかる。言葉にすると冷たいけど、そういうもんだと思う。それに、これは彼女なりの私への思いやりだ。
「心配するのは仕方ないし悪いことじゃないよ? でも、心配しすぎ。たいして知らない人の健康を心配して、いつから立ってるのかわからない古ぼけた蛇注意の看板に心配して、友達の友達が心霊スポットに行くのを心配して、ただの捻挫に心配して、自分も他人も無節操に心配して疲れない?」
疲れるに決まっている。でも自分ではどうにもできないのだから、仕方がない。何も言えなくて口をつぐむ。
「大抵のことは大丈夫。何も起きないよ」
私はやっぱり返事ができない。そんな私のマグカップを莉里がのぞいた。
「もうないじゃん。コーヒーおかわりいる人」
はいと、手を挙げるとインスタントの粉をマグに入れてくれた。こういうところが彼女は優しい。ポットはわたしの方が近かったので自分でお湯をいれた。
暇になるとみんなここにたまるから、お土産、カンパ、先代の残り物で実習室の前のスペースはさながら実家のようなここちよさだ。
先代の残していった暖房は小さい電気ヒーターのみで寒いけど、寒い寒いと安い毛布をかぶるのも悪くはない。
「これ、誰が持ってきたやつ? くそまずかったんだけど」
莉里があまり日本では見ない形のお菓子を指さした。
「なんか知らない国に行った教授のお土産」
「教授のやつ? まずいって、言っちゃった」
「大丈夫、教授もまずいからぜひ食べてって言ってた」
せっかく時間ができたのだから、ここでたむろってないで、実習室に入り、絵を描かくべきだと思いながらも、雑談して過ごしてしまうのはいつものことだ。
それでも、もう冬にさしかかり後期課題である絵をそろそろ完成しないといけないのだけど。
「はー、描かないと。冬休みって実習室開くのかな?」
「先輩がだいたい開くって言ってたよ」
「ありがたいー。それに甘えるのはだめだとわかってるけど」
新しいお菓子をあけた。何をするのにもまず糖分とまた言い訳をする。
「ミクニは頑張りなよ。4年なったら忙しいから、ここまでちゃんと絵をかけるのって最後かもよ」
「そうだよね」
「先生だっていないところでほめてたし、私もミクニの絵好きだしがんばって」
明るく莉里はほめてくれる。莉里はもうほとんど完成していているから気楽なようだ。
んーーと、寝言のような最低限の肯定をしてクッキーをつまむ。
「あっ、やっほー、米沢じゃん。なにしてんの?」
真緑のつなぎの男が手を降って近づいてきた。
「そっちこそ、油に何しに来たの?」
莉里が手を振りかえしたので友達らしい。
「なんか、ヨシくんにクソまずいおやつあるから食べにおいでって言われて」
「あっ、生贄じゃん! 食べて食べて」
誰か知らないけど、つなぎを来てるのは立体造形が多いからたぶん立体造形の生徒だろう。
立体造形、日本画、洋画と専攻は違うけど、高校や予備校が一緒なので元々知り合いだったという勢力がある。その人たちは専攻の垣根を超えて気軽に訪ねてくる。このスペースはもちろんだけど、実習室さえも、長時間は嫌がられるけど、多くの作品を見ることや、意見交換も勉強と考えるのか、生徒の行き来は盛んだ。私は地方からなのでそういう知り合いはいっさいいないけど、莉里は高校や予備校の知り合いに、さらにその知り合いと顔が広い。
「私、描いてくるよ」
「いってらっしゃい」
人見知りするタイプの私はその場をはなれた。
存外、美大もコミニケーションできる人が多い。
実習室は5人で使っていて、今日はめずらしく誰もいない。私は自分の絵の前に立つ。100号の絵はちょうど私の身長と同じ横幅で、台の上に置いてるから高さもちょうど私と同じだ。
風景を描いていた。画面下には写実的な草木や町並みが描いてあり、大半は空が占めている。特徴的なのはその空だ。太陽が地平線に近い時の、たくさんの色がある空を写実半、抽象半というような、立体感と物質味を感じるように描いていた。
空のモデルは、故郷の空だった。地方の田舎町はとても空が大きくて、夕焼けになると、雲は赤々と燃えていた。プルシャンの青は吸い込まれそうだった。こちらの空はみんな地上の障害物に遮られて、そんなに大きくはない。
絵を触ってみたけど、手にはつかない。もう乾いてしまっているようだ。
「ミクニちゃんって、国山さんのことだったんだ」
振り返るとさっきの真緑のつなぎの男がいた。
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