カツ丼

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 江藤ゆかり18歳。只今、絶賛受験生やってます。  『 カツ丼 』 「ゆかりちゃん!はい、カツ丼。これでもう合格間違いなしよ!」  朝からハイテンションな母・美津子が手渡すホカホカのカツ丼。ふわりと立ち昇る出汁の香りに、ちょこんと添えられた三つ葉、ぷるんと魅惑の揺らめきを見せる半熟卵に、サクサクの衣をまとったトンカツ―。  美味しそうだ、いや事実美味しいのだ。しかし、本日10日目ともなると少々事情も変わってくる。 「…あのさ。ほんと気持ちは嬉しいんだけど、こうも毎日カツ丼だと正直飽きる。それに見てこの腹!太ったの!!人生で恐らく一番多感な時期に太ったの!ああもう、これだけでストレスだわ。」  朝っぱらから制服をたくし上げ、見事な貫録を見せ始める腹部を晒す。ニコニコ笑顔の美津子には悪いが、これは一大事なのだ。うら若き乙女の腹が縦ならまだしも、横に割れているなんて…。あってはならない! 「昨日も、一昨日もその前も言ったけど!もうカツ丼は結構です!お母さんの気持ちは充分受け取ったから、私はシンプルに納豆ご飯が食べたいの!」  ここのところ、長らく据えかねていた思いを遂にぶちまける時が来たのだ。ゆかりは内心のガッツポーズを高々と掲げ、そそくさと冷蔵庫に手を伸ばす。確かここら辺に、納豆パックがあったはず―。  その刹那、凄まじい勢いで冷蔵庫は閉じられた。 「…ダメよ。いけないわ、ゆかりちゃん!受験生はね、カツ丼って昔から決まっているの。納豆なんかに現を抜かしてはいけないわ!」    たっぷり5秒間―、母と娘は見つめ合った。その間、ゆかりの脳内では美津子の言葉が駆け巡り、受験に必要な勉強内容を押しやってまで考えた。納豆に現を抜かす、現を抜かす…納豆に…。 「いや、意味わからんわ!なに、納豆に現を抜かすって?!初めて聞いたわ!」  一瞬、真剣に考えてしまった。その姿はまさに、難問に立ち向かう受験生の…って、やかましいわ。 「そのままの意味よ!ゆかりちゃん、よく考えてみなさい。今、目先の欲に駆られて納豆を食べたとします。その結果、受験に失敗したらどうするの!?あの時お母さんに従っておけば、って絶対に後悔するんだからね!」  いや、まじ何言ってんの。ゆかりは、助けを求めるように父・高志へと視線を投げた。すると、ちょうど新聞から顔を上げた彼と目が合った。しめた! 「ねぇ、お父さん!お父さんからも、なんとか言ってよー!」  その瞬間、美津子の喉元からはグッと鈍い音がした。ふふふ、伝家の宝刀“父親の威厳”を使う時が来たようだ。込み上げる勝利の笑みを嚙み殺し、ゆかりはさも“困ってます”という顔で、高志の言葉を待った。 「…俺は別に構わんぞ。カツ丼好きだし。」  はぁ?その新聞、引きちぎってやろうか。  まさかの襲撃による形勢逆転。背後からは勝ち誇ったような忍び笑いが聞こえ、ゆかりの怒りに油を注ぐ。 「もういい!学校行くからっ!」  我ながらガキっぽい行動ではあるが、精神衛生上ここに留まるわけにはいかない。ゆかりは、勢いよく鞄を掴むと足音も荒く玄関へと向かった。  「さすがに早いか…。」 勢いそのままに家を飛び出したはいいが、時刻は7時過ぎ。始業のベルが鳴るのは8時15分だから、凡そ1時間近くも余裕があるわけだ。また幸か不幸か、学校までは徒歩5分の距離。これでは朝練に繰り出す部活少女だ。 「どうしたものか…。」  怒りはとうに沈下しており、このままシレっと家に帰ってやろうかとすら思う余裕まで生まれていた。しかし帰ったら帰ったで、出迎えるのはあのカツ丼かと思うと二の足を踏む。 「どうするかなぁ。」  とりあえず学校へと向かいつつ、何処かコンビニで朝ごはんを調達するしかない。ゆかりは小さくため息を吐くと、コートのポケットに両手を突っ込んだ。  思えば―、母・美津子の暴走はなにも今回に始まったことではない。何かイベントがある度に、どこからともなく入手してきた情報に踊らされ奇行に走る。まぁ、今回のカツ丼はやり過ぎだけど、彼女なりに娘を思いやっての行動だと言うことは理解している。  とは言え、物事には限度と言うものがある。このまま美津子の好きにさせておけば、徒に被害が拡大するだけだ。父・高志が役に立たないと分かった以上、もはや美津子を止められるのはゆかりを置いて他にいない。 「ほんと…受験に集中させて欲しいんだけど。」  なんとも疲れたため息が1つ、寒々とした空気に溶け込んで消えた。  急に降り出した雨がしとしとと街を覆う18時過ぎ。家々の窓からは温かな明りが漏れ出し、夕餉の香りがどこからともなく鼻腔をくすぐる。 「ただいまー。」  薄らと濡れそぼるコートの袖を払いつつ、ゆかりは玄関をくぐった。今朝の一件が尾を引いてか、その声は少し硬い。 「おかえり。」  片や出迎えた美津子は満面の笑みだった。まるで、今朝の出来事など無かったかのような振る舞いに、少なからずゆかりは動揺を覚えた。これが母親の包容力というやつなのか―。 「お腹空いたでしょ?すぐご飯にするわ。」  普段と何ひとつ変わらない笑みを浮かべ、ゆかりの身体を気遣ってすらみせる美津子。ゆかりはこの時、ハッと胸を突かれたような気がした。  そうだ―、いつだって母は私を第一に考えてくれていた。ちょっと暴走気味な所はあるけど、全ては私を思うが故のこと。…カツ丼がなんだ、太ったことがなんだと言うんだ。そんな目先の事に捕らわれて、大いなる母の愛を疑うなんて―。  ゆかりの目には次第に涙があふれ、聖母のように微笑む美津子が歪んで見えた。 「…お母さん!わたし、私…お腹空いたの。お母さんのご飯が食べたい。今日の晩御飯は何?」  すっかり冷え切っていた体温は内側からポカポカと火照り、じんわりとした温もりが広がっていくようだった。  美津子は驚いたように目を見開くと、ゆっくりと微笑んだ。 「今朝の残り、カツ丼よ。」  しばらく、この呪縛は続きそうだ―。
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