引っ越しなんて大嫌い

1/1
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/2ページ

引っ越しなんて大嫌い

「そうですねえ、ご希望のご予算でこの路線ですとこの3件かと。」午前中から歩きまくって4件目。今日中に目星をつけなければ、引っ越しまでのリミットに間に合わない。僕は焦っていた。ネットですべて解決するこの時代だが、やはり住む所となると実際に見てみなければならないのが家探し。慎重の上にも慎重であらねばならない。  上京して3年、会社からほど近い家は、会社からあてがわれた洒落たマンションで、狭いながらも僕には充分だった。オール電化でエアコン完備、ウォ―クインクローゼットに冷蔵庫もついている。小さなキッチンはスタイリッシュな仕上がり。グリルで仕上げるハンバーグが僕の自慢料理の一つだ。  それがそれが、寝耳に水とはこのことか。建物全体の配管に致命的な欠陥が見つかったということで大規模工事が行われるという。修理にどのくらいかかるかわからず、とりあえずあなたたちは出て行って、と退去と命じられた。つまりはこの都会のど真ん中で放り出されたわけである。  格安な金額で借りられていた今の部屋とは違い、今度は全額自分もち。初期費用こそ会社が払ってくれるものの、この先何年も住むとなるとやはり贅沢は言ってられない。不動産屋に提示された家は、どれも狭く古い上に高かった。  僕が渋った顔をすると、目の前の男性はゆっくりと立ちあがりごそごそと後ろのキャビネットから一枚の紙を持ちだし僕の前に置いた。 「隣の県になりますが、こちらも同じ線ですよ急行は止まりませんが。」差し出した紙を覗き込む。20分程度だった通勤時間は1時間と大幅に延長。その代わり専有面積は今の3倍近く広い。部屋が2つでリビングもある。悪くない。 「ファミリー向けなので、独身の方なら十分かと。家賃も同じくらいですよ。」是非内見を、と僕はお願いし車で現地に向かった。  ナントカ街道というらしい。やけにファミリーレストランやチェーン店の看板が目立つ道を通り、宅地開発中の殺風景な一帯を抜ける。急に町中に入ったかと思うと商店街を横目で見て細い路地に入っていった。  昭和の空気満載の戸建て住宅が並ぶ中にアパートが建っている。木造建築ということで、刑事ドラマで犯人が刑事に追いかけられて逃走するようなものを思い浮かべていたが、良い意味で期待は裏切られた。三角の茶色の屋根と白く塗られた壁が北欧風で、ネイビーブルーの扉には金色の縁取りがある。 「お洒落ですよね。建て替えられたばかりなんです。内装も気に入ってもらえると思いますよ。」不動産屋さんは鍵をまわしドアを開けると長い右腕を伸ばして、僕に入るよう促した。  すべてが気に入った。僕はついてる。その日のうちに契約を結び、帰宅して引っ越しの手配も済ませた。怖いくらいに順調である。  引っ越しの日も決まったところで、逆算してその準備をしていかなければならない。梱包は仕事から帰ってからはきついので、休みの日になるべくやり終える。こういうことは予定通りにはいかないことを踏まえて、当日二日前に同僚二人を助っ人としてお願いすることにした。今のところに来た時は、母親と妹が手伝ってくれたのだが、妹は現在妊娠中。母親は絶対にNGだ。  荷物を整理していると、ここへ来てからなんと多くのものを購入してきたかと自分ながらびっくりする。実家にいた時には決して手にしなかったものが、今や必須アイテムとして生活に溶け込んでいるのだ。最たるものは男性用コスメの一式。ビジネスマンとしては今や当然の持ち物で、同期の者たちとはその情報交換に余念がない。もちろん仕事はちゃんとしているつもり。ノートパソコンやタブレットの使い勝手では、口角泡を飛ばしての白熱した議論を交わしたこともある。外見をスマートに、そして仕事もスマートに決めるのが今の若者なのだ。  さらに僕はスマートな部屋も手に入れた。順風満帆とはこのこと、と思っていた。そう、引っ越しのこの日までは。  引っ越し当日は昨日までの雨も上がり見事な快晴。幸先が良い!トラックが来るまでにはまだ時間がある。朝に使ったクリームやへヤードライヤーなどを段ボールに詰め厳重にテープを貼る。身だしなみはいつでも大切なのだ。同期の友人二人が手伝いに来た。コンビニで買ってきてくれたおにぎりやサンドウィッチを有難くいただく。昼飯はいつになるかわからないので、しっかりとここは取っておかねばならない。  食べ終えたところで、スマホの電話が鳴った。不動産屋さんからだ。 「いやー、すみません。向こうの店から電話がありまして、どうやら日にちを間違えていたようで、すみません。」え、何かものすごく嫌な予感。 「引っ越しですが明日になっているんですよね。手違いがあったみたいで、」淡々とした言い方が不安を増大させた。それは絶対困る。こちらは今日退去として連絡済みで、何より引っ越し屋さんが今日しかあいて無かったのだ。 「いやー、すみません。」それさっきから何度も聞いている。 「何とかしてください。こちらは今日しかないんです。」僕だって譲れない。 「新しい人が入る前には掃除とか修理とかが必要でして、それがまだ万全ではなくて。」 「万全でなくても構いません。こちらはもう準備しているんですから。今日です。必ず今日引っ越しできるように。」スマホに向かってこんなに大きな声を出したことはそうない。明日は大事な会議があり、どうしても今日なのだ。  その後向こうの店舗とのやり取りがあったと思われる。しばらくしてまた電話がかかってきた。 「大急ぎで済ませるように言いました。お昼過ぎには終えるということなので、すみませんがそのころ着くように、ということでお願いします。」少し光明が見えてきた。 「分かりました。なるべく急いでくださいね。トラックはもうすぐ来ると思うので。」  どうやら契約をした店舗と実際にその部屋を管理する店舗が違うことから、連絡ミスが出たということだった。県境を越えるとこういうこともあるのだろうか。とにかく今日引っ越しはできるわけで、まずは一安心した。  と思ったらピンポンとチャイムの音。うあ、トラックが来た。僕は走ってドアを開けた。 「母さん!」そこには実家に居るはずの母が立っていた。 「来たわよ~、義明ちゃん!あなた何で連絡寄こさなかったのよ。美穂ちゃんから聞いてもうびっくり。なんて急なんでしょ。荷造りはできてるの?手配とかちゃんと大丈夫?このお部屋しばらくは居られると思ったのに、ほんとうにもう。」騒ぎを聞きつけて同期二人が玄関まで来た。二人とも大柄だが、母さんは横幅があり、おそらく体積では母さんの方が大幅に上回る。一挙に密になって、そこを母さんが中へと入りこもうとするから、ラッシュ時の電車の中のようだ。 「あらあら、会社の方?いつも義明がお世話になっています。義明の母です。今日はお手伝いに来て下さったの?」お辞儀なんてできない。母さんは2人の顔を見上げながら、泳ぐように室内に入っていった。 「お世話様です。」と言いながら狭い廊下を通り、一つしかない部屋に到着。そこは段ボールだらけで足の踏み場もない。僕らは顔を見合わせる。それそれなにを思っているのか。僕としては母の存在とさっきの“義明ちゃん”が聞こえたかどうかだ。 「おまえ”義明ちゃん”って呼ばれてるの?」高橋が言った。目は明らかに笑っている。声が出そうなところを手で抑え、もう片方の手でもう一人の同期斎藤の肩を何度もたたく。斎藤も笑いをこらえるので必至だ。聞かれた!もう終わりだ!  いや、それは子供の時からで。僕はとにかく嫌で…。弁明しようとしたところで何やらガサゴソと音がした。そちらに振り向くと母さんが段ボールを開けているところだった。 「義明ちゃん、こんなテープの張り方じゃすぐに開いてしまうじゃない。な~にこれ。化粧品?義明ちゃんこれあなたが使っているの?」肌のための化粧水、オールインワンのジェルやマスク、ヘアケアのためのクリームやスプレー、リップクリーム数本、小箱やポーチに入れたものまで手に取り、矯めつ眇めつ。僕は慌てて傍によった。 「母さん勝手に開けないでよ。」ひとつひとつを元に戻し、今度は厳重にテープを貼る。母さんは別角度で手際よく一個の荷物を仕上げた。  この調子で開けられたらかなわないと、すでに積んである段ボールを確認する。あー、早くトラックが来ますように。 「あらららら。義明ちゃん、こっちも。こんなに重たい物,底が抜けちゃうわ。運ぶ人だって大変よ。小さな箱に入れなおし。早く早く!」残っていた小さな箱を見つけ、母さんの所に持って行った時には、すでに中を見られていた。 「義明ちゃん、こんな雑誌今まで読んだことなかったのに、まあ~。」洋服に関する買いためた雑誌を手に取り、母さんが一冊一冊パラパラとめくっている。僕は抗議の声を出しつつむしり取るようにして小さい箱に移していった。油断も隙も無い。後ろでは高橋と斎藤がコソコソと話している。時折”義明ちゃん”と言う声が聞こえるから、まだその話題で盛り上がっているのだろう。しつこい奴らだ。  そうこうするうちに、引っ越しのトラックが来た。チャイムと共に3人のプロが部屋の中に入る。僕はこれ以上母さんに箱の中身を見られないよう、手早く指示を出し、運び出しが円滑にいくように気を配った。向こうもぐずぐずされるより、ずっとその方がいいに違いない。同僚二人も余計なおしゃべりは切り上げ慌てて作業に加わる。母さんはその中でぽつんと取り残された感じになったが、はっと我に返ると、軽いものをせっせと運び出しにかかった。それを見ていたプロの一人からそれは後ですよ、と注意を受ける。母さんが行き場を無くした箱を持ったまま右往左往しているのを見て、僕はかわいそうに思った。箱を引き取り、母さんは少し休んでいてと声をかけた。 「そうね義明ちゃん、ありがとう。」と素直に聞いてくれた。これで少しは静かになるだろうと思った矢先、これは何なのと、ドライヤーの他、ヘアアイロンや電動の鼻毛カッター、肌の乾燥を防ぐ美顔器の入った段ボール(上が飛び出ていて蓋ができなかった)を取り上げているではないか。僕はそれをそばを通りかかったプロに、これもです、と言って強引に持って行ってもらった。  母さんは段ボールを運ぶよりも開ける方が多く、プロの作業はしばしば中断。彼らをイライラさせたが、同僚二人にとっては僕のからかいの種を掘り出す神の手のように見えたらしく、傍によって3人でこそこそと話している。僕はそれを見て、プライドが宇宙の原初の姿のように点にまで小さくなっていくのを感じた。  ようやく積み出しを終え、トラックが出発した。僕たちは高橋の運転する自動車に乗り込み(母さんも一緒だ!)、後を追った。洒落たマンションやモデルハウスにあるような戸建てが並ぶ住宅街を抜け、幹線道路に入ったところで前のトラックが速度を落とした。どうやら事故渋滞のようだ。のろのろとしか動かない。急ぐ必要もなく、むしろ掃除が終わっていないということで、ゆっくりでかまわなかった。ただ、母さんが僕の小さなころの失敗談を同僚たちに話しているのが気になった。就学前はたいそう太っていたこと。駆けっこはいつもびりだったこと。小さな時からおませで告白しては振られていたこと。バレンタインデーにひとつのチョコレートももらえず泣いて学校から帰ってきたこと。やっとできたガールフレンドの話に入るころには、車はようやく県境を越え自然豊かな景色につつまれていた。  これから町中に入るという所で何やらまた大渋滞に巻き込まれた。以前来た時にはなかった工事のようで、片側一車線のみの通行らしい。長い停車時間に搬入の疲れもあって、いつしか母さんと斎藤が眠ってしまった。ナビをする僕は助手席にいて、高橋に話しかけた。 「母さんが、あの、どうにもすまない。」適当な言葉が浮かばず、内容がない。高橋がプッと笑った。 「いいお母さんじゃないか。」”いい”と言うのはどういう意味なんだろうか。ただ、“ああ”とだけ応えた。 「今日母さんが言ったことや母さんから聞いたことは、他の仲間たちには内緒にしてくれ、頼む」僕は手を合わせた。高橋は大笑いしている。 「そんなことか。気にするな!」高橋は斎藤と同様同期入社の親友である。少々軽いところがあるが気さくでよく一緒に飲みに行く。僕は彼の横顔を見て一抹の不安を覚えながら、とにかく信用することにした。信じる者は救われるのだ。と、前の車が動き出したと同時に母さんが起きた。 「なに、義明ちゃん、着いたの?」 「まだですよ、おかあさん。」と高橋が僕の代わりに応えた。少し笑っているのが気になる。  その後は順調に進んだが、新居に到着したのは2時を回っていた。有難いことに掃除は済んでいた。二つの渋滞が幸いだった。皆お腹が空いていたので、コンビニでおにぎりでも、と斎藤が買い出しに行く。近くに確か商店街があったはずである。しばらくして帰って来た斎藤の手には、よく見る白いレジ袋ではなく、中に紙に包まれたものが入っている色付きのビニール袋を下げていた。 「この辺、コンビニないよ。その代わりおにぎり屋さんがあった。」取り出した紙包みは二つ。一つを引っ越し屋さんの3人に、ペットボトルのお茶とともに渡す。恐縮していたが、きっとお腹が空いていたに違いない。快く受け取ってくれた。僕たちはキッチンのカウンターに集まり、包みを広げた。経木にくるまれたたくさんのおにぎりが出てきたのを見て、少し懐かしさを覚えた。我実家の近くにも、和菓子と共にこういうおにぎりやいなりずし、赤飯を売っている店があった。手作りなんだよな、と思いながら母さんの方を見る。母さんは、しかし、おにぎりの種類が気になって”これは何?これは何が入っているの”と、確認の真っ最中だった。斎藤が一つ一つ説明をしている。高橋は端から攻めていき、すでに二個目を口にしていた。うかうかしていては無くなる。焦った僕は逆の端からとにかく口に放り込んだ。  今度の部屋はずっと大きく2部屋ある。2LDKという間取りだ。小さなフローリングの洋間は寝室に、六畳ほどのもう一つの洋間はパソコンや本棚を置く部屋にした。風呂とトイレはもちろん独立していて、以前の部屋より広い洗面台もある。  引っ越し屋さんはもうすでに洗濯機や冷蔵庫など大物を配置し終え、大きな段ボールを運び入れていた。僕たちも急いでおにぎりを食べ終えると、それぞれの部屋に適当な段ボールを置いていく作業にかかる。これはそっち、それはあっちと僕は指示していった。まずはトラックから荷物を運び出すことが先決なわけで、荷解きは二の次だ。  エネルギーをチャージし皆がきびきびと働く中で、母さんが洗面台の方で何やら動き回っていた。いやな予感しかない。見ると例のドライヤーなどの入った箱を開け、フックにかけているところだった。髪や肌につけるそれぞれの何種類かのクリームや化粧水も取り出していた。洗面台は、大きな鏡を中央に左右に3段の棚と下に両開きの戸棚がある。どんどん置いていけばいいものを、母さんは一つ一つふたを開け臭いを嗅いでいた。 「義明ちゃん、これ、こんなにたくさん。本当に要る物なの。まあ、いい匂いはするけど。」 「母さん、いいから棚に置いていって!それにまだ箱は開けなくていいよ。荷物を運んでよ。」僕は母さんの手からシェービングクリームと乾燥防止のナイトクリームをもぎ取り、一番上の棚に置いた。母さんはお気に入りのおもちゃを取り上げられた子供のような顔をしていたが、それでもおとなしく玄関の方へ向かっていった。僕はそれを確認すると、大急ぎで箱の中の残りの美容グッズを、棚や下の開き戸の中に押し込んだ。後できちんと配置していけばいい。 「お前すげえな。こんなの持ってるのか。」頭の上で声がしたのでびっくりした。高橋が、つい一週間前に発売したばかりで8000円の大枚をはたいて買った毛穴防止のゲルを手にしている。 「意識高い系!もっと無頓着かと思った。なんというか、素朴な青年?これはいい意味で。」 「おお、俺もそう思っていた。意外だったなあ。」斎藤も加わる。 「努力してんだな。俺たちも見習わなきゃ。」斎藤の言葉に高橋も頷く。最後のセリフは絶対にからかいだ。二人とも目が笑っていた。 「よこせよ。」僕は強引に高橋の手からゲルを取り上げ棚に置いた。怒った表情だったと思う。斎藤が肩をすくめ、二人は搬出作業へと出て行った。  トラックが帰っていたのは夕方近くだった。とりあえず必要なものだけの段ボールを開けたところで、母さんが新幹線の時間があるからと言った。僕は最寄の駅まで送って行った。歩いて5分。商店街を抜けてすぐだ。来てくれたお礼と重労働へのねぎらいをした後、僕はどうしても言わなければならないことを口にした。 「母さん、もう僕のことを義明ちゃんと呼ぶのは止めてくれないかな。社会人なんだよ。恥ずかしいよ、同僚の前で。」僕は懇願した。母さんは少し困ったような、さびしげな表情をした。 「そうね、もう社会人だものね。努力するわ、義明ちゃん。」そう言うと電車に乗り込んでいった。ドアが閉まりこちらを振り返った時、母さんはニコッと笑った。それを見て僕は思った。ああ、絶対に努力なんかしない。僕は母さんの子だからわかる。母さんはそういう人だ。きっと一生僕を義明ちゃんと呼ぶにちがいない。  夕方の商店街は、夕ご飯の品を求めてたくさんの人でにぎわっていた。おでんやフライなどのいいにおいがする。ついでなので僕も夕食を買っていった。鶏のから揚げにメンチコロッケ3つと串カツ3本。おでんは大きなカップに入れてもらった。意気揚々と帰ったところで、二人が悲痛な声で出迎えた。 「おい、電気通ってないぞ。ちゃんと連絡したのか?」僕はショックで危うくおでんのカップを落としそうになった。あわてて契約した電力会社に電話をする。何かの手違いに違いないが、引っ越しの日にちが一日ずれていた。不動産屋さんと同じ。その原因うんぬんはともかく、今すぐ電気が来てくれないことには、真っ暗な中どうして生活できる?幸いなことにガスは通じていた。お湯も沸かせるし風呂にも入ることはできる。しかし、電気が無くては…。僕の思っていたことを高橋が代弁した。 「ドライヤー使えないな。」憐れむような目で二人が僕を見つめる。 「ドライヤーなんて、要らないよ。髪なんてタオルでふけばいいんだ。」僕は言ってやった。 「そうかあ。」明らかに納得してない様子だったが、二人はそれ以上追及してこなかった。僕たちは暗い中で、夕食を済ませた。二人は早々に帰って行った。  翌日、僕は会社に行った。家が遠くなった分、今までよりも少し遅い時刻になった。高橋と斎藤はすでに出社していた。何だか僕を見るみんなの目が違って見えた。今通り過ぎた同じ課の女の子たちは笑っていなかったか?ただの気のせいか?疑惑と不安を抱えながら部署の部屋のドアを開けた。自分のデスクのある所まで、何人かとあいさつを交わした。”おはようございます”の後に小さく笑う習慣がここにはあったかと回顧する。  デスクの上に鞄を置いた。高橋と斎藤が寄って来た。 「義明ちゃん、おはよー!」目の前が真っ白になった。僕はこれまで苗字の“城之内”とずっと呼ばれてきた。見た目がよく、仕事もバリバリこなし、上司からの評価もすこぶる高い。もちろん、女子からは羨望のまなざしで見られてきた。それがたった一日でもろくも崩れるとは。高橋は僕の頭をくしゃくしゃにし、斎藤は僕の両肩をゆすって上機嫌だ。周りはくすくすと笑っている。僕は礼儀に従い二人に昨日の礼を言った。 「いや、礼なんていいのいいの。それより新居からの一日目はいかかですか、義明ちゃん」周りの笑いは一層大きくなった。二人が僕の生活になんかこれっぽっちも関心がないのは明らかだ。ただ”義明ちゃん”が言いたいだけ、さらには僕の美意識をからかいたいだけなのだ。  新居はいい所だ。永く住んでいきたい。だが。長い人生、居を移すことはこれからもあるだろう。しかし僕は、引っ越しなんて大嫌いだ!  
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!