カイワリ

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カイワリ

ふゆくんが足を退かすとタバコはミミズみたいに捻れて、乾いた茶色い葉が無惨に屋上の地面ですり潰されている。 わたしは生活指導の先生に喫煙がバレたりしないだろうかと気が気じゃなかった。 うちの私立高校では、タバコや万引きは勿論悪いことで、バレたら停学になる。 停学処分の期間は一回目が三日間で二回目が一週間で三回目が無期停、そして次は退学処分になるという決まりがあるのだ。 実際にこの日のうちに喫煙はバレてしまい、わたし達は三日間の停学処分になった。 ふゆくんは素行があまり良くないものの、テストはどの教科も殆ど満点のインテリくんだ。 一年生の冬には、日本数学オリンピックで上位者クラスの成績を収めている。 ふゆくんは実家が資産家で、お祖父ちゃんから家屋敷をぽんと与えられており、高校生にして住み込みのお手伝いさんと二人で暮らしている。 実質一人暮らしと言えば、なんとなく憧れてしまう面もあるけど、本人は外壁や庭の手入れが面倒臭いとよくボヤいていた。 両親とは離れて暮らしていて、会いに行くには新幹線を使わないといけないらしい。 実は六つ年下の妹さんがいるみたいだけど、詳しくは話してくれなかった。 居間に家族写真が置いてあったので、仲はそこまで悪くないと思う。 優秀な頭脳と裕福な実家に加えて、ふゆくんは大変な美人さんである。 その端麗な容姿から、影では少なくはない女子生徒に好意を向けられていた。 普段は一人でいることが多いけど、男子生徒から疎まれてるわけでもなく、むしろ一目置かれる存在である。 お世辞を言って露骨に取り入ろうとする上級生もいるくらいだ。 噂によると、ふゆくんはその立派な頭脳でアダルトビデオのモザイクを消せる技術を取得しているらしい。 どれくらいすごいか分からないけれど、ふゆくんを神様のように崇める男子生徒が少なからずいるところを見ると、とんでもない技術なのだろう。 しかし、ふゆくんはモザイクを削除(正確にはバラバラになった映像情報から復元しているらしいけど)することに興味があるけど、内容にはそこまで興味が無いという。 付き合い始めの頃、ふゆくん好みの女の子が知りたくて、モザイクの消されたAVを見せて欲しいと頼んだことがあったけど、すごく嫌そうな顔をされてしまった。 下駄箱を抜けて、視界に広がるのは緑の生い茂る濡れた桜の木々だ。 葉桜が雨に洗われて艶を増している。 わたし達は正面玄関の屋根の下で、ずっと雨の音を聞いていた。 「口、開けろよ」 にぃっと犬歯を見せて笑った口元と撓んだ双眸に、何を言う間もなく愛しさでボヤける頭が先走る。 かぱりと開いた口に、透明な紫色の玉を放り込まれた。 舐めると舌先から口内に広がる可愛らしい味。 本物の果実とは似ても似つかない人工的な甘さが、小さな時に好きだったグレープのキャンディーと同じ味だと気づく。 懐かしい甘味に、だらしのない笑みが溢れる。 「あまーい」 「うわ、かわいそう。締りない馬鹿丸出しの顔……」 「えへ。ふゆくんってば、ひどーい。わたしはふゆくんにあいらぶゆーなだけですよーだ」 「……あっそう。はいはい」 ふゆくんはまるで犬や猫を弄るような手つきで、わたしの頭を撫でた。 長い指が、わたしの髪を無残に乱してぐしゃぐしゃにする。 ふゆくんは眉間に深く皺を寄せていて、わたしを見下ろしていた。 わたしは幸せな気持ちで微笑みかける。 耳の裏を弄ったり、喉元を擽ったりして、乱暴なようでやさしい手つきだ。 「……雨、止まねえな」 ふゆくんは土砂降りの空を鬱陶しそうに睨んでいた。 激しい夕立どころの騷ぎではない。 校舎は真白い雨で包まれてしまって、前方が全く見えなくなっている。 「ふゆくん、タバコはもういいの?」 わたしはずっと気になっていたことを問いかけた。 一度目の停学処分から、ふゆくんはわたしの前でタバコを吸わなくなったのだ。 こっそりどこかで吸っているのかもしれないけれど、少なくとも学校には持ち込んでいない。 ふゆくんは首を傾げて、不思議そうに目を細めている。 「依未ちゃん、吸いたかったの?」 「そういうわけじゃないけど……」 「それならさぁ、いいじゃん。僕もべつにハマれなかったし。今からニコチン中毒になったら金ばっかりかかるよ」 「じゃあ、どうして今まで吸ってたの?」 「ちょっと興味はあったから、試したいこともあったし」 上機嫌な眼差しで、わたしを見ていた。 もっと、楽しんで欲しいな。 わたしは正面玄関から下駄箱に戻って、ステンレス製の傘立てに残された複数の傘の中から一本の黒い傘を躊躇いなく引き抜く。 誰のものか分からない傘を片手に、タイルの小さな水溜りを踏みしめて、ローファーが濡れることも構わずに、ふゆくんの元に急いだ。 わたしは迷いなく盗んだ傘を差し出す。 「これ、使おうよ。帰れるよ」 一瞬、逡巡していたようだけど、しばらくの間を置いてふゆくんは傘を受け取った。 閉じたままの傘を持ち上げて、しげしげと眺めている。 「これさぁ、誰の傘?あなたのじゃないよね」 「知らなぁい。誰のだろう?」 「……」 僅かな沈黙の後、ふゆくんは傘をゆっくりと広げた。 洗練された動作はまるで高貴な王子様のようで、こんな素敵な人に使われるなら、むしろ盗まれた傘は幸せだろう。 「これで共犯者だな」 ふゆくんは傘にわたしを入れて、肩を引き寄せながら言った。 珍しく困ったように、でもちょっと楽しそうに笑うふゆくんの胸に頭を乗せながら、ゆったりとしたテンポで会話をする。 お互いの心臓の音だけが耳に残って、自分の思考の働きがどんどん鈍っていく。 「ふゆくん、キスしたいな、だめ?」 「依未ちゃんって、ほんっと僕が好きだね」 「うん。わたしはふゆくんがいっとうすき。だからね、きみと一緒ならわたしは何でも出来る。何処にいてもずっと幸せなの」 「どうかなあ」 エメラルドの双眼を細めながらわたしを見た。 濡れた眼球から目を逸らせなくなる。 ふゆくんは空いた手で、わたしの頬から耳をやさしく撫でると、舌は入れずに口をつけた。 「あっま……」 物事を正常に考える脳が溶けていく。 体温が理性を麻痺させれば、良心なんて簡単に朽ち果てる。 プライドや罪悪感なんて、本物の執着の前ではいかに軽いモノなのかを知るのだ。 しんと張りつめた空気の裏には、いつだって人間の欲望が煮詰まって隠されている。 ふゆくんは穏やかに目を緩め、そして言い放った。 「依未ちゃんは、かわいそうだね」
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