トリックアート

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 なかなか二人の距離は縮まなかったが、はじめてのデートから結婚を決めるまではひと息ほどの期間しかなかった。初デートでプロポーズしてしまったからだ。兄は慎重なタイプで、晩婚なんじゃないかと密かに思っていたくらいだから、俺は驚いた。  兄と茉莉は大学を卒業し半年ほどで結婚した。もう少し落ち着いてからにしろと反対する周囲を押切り、一緒になった二人は幸せそうだった。俺もせめて二、三年独身生活を楽しめばいいのにと内心思っていたが、今になってみれば、虫の知らせじゃないけれど、少しでも多くの時間を茉莉と過ごしたいという予感みたいなものがあったのだろうかと思う。  休日のその日、兄は一人で出かけていた。信号待ちをしているところへ一台の車が前触れもなく突っ込んできた。兄はとっさにその場にいた子供を守り跳ねられた。幸い子供は助かった。  病院で対面した兄の表情はいつものように穏やかだった。兄らしい。最初にそう思い、続いて悲しみが一気に込み上げた。横たわる兄を見つめる視界の端で、茉莉が兄にすがりつき泣いていた。  結婚生活はわずか一年半だった。  故郷での葬儀を終え、俺たちは飛行機で東京へ戻った。機内で茉莉は疲れ果て眠ってしまい、俺は隣で窓の外を見ていた。漆黒の中に浮かぶ街の明かり。平地から山の起伏に沿って集まり、まばらになりまた集まる。ここから見れば点でしかないひとつずつの明かりにそれぞれの生活があり、人生がある。この中に兄はいない。もう兄の人生が先へ進むことはない。今隣で眠っている最愛の人を残して逝ってしまったことが、俺には飲み込めなかった。これから何十年も共に過ごす未来があったはずなのに。  空港から茉莉をマンションへ送った。玄関を開けたところで帰ることを告げると茉莉が息を呑んだ。 「どこへ?」  何を言っているのだろう。 「自分の、家だけど」 「彗……」
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