トリックアート

4/9
前へ
/9ページ
次へ
 俺は兄夫婦のマンションで暮らすことになった。帰ろうとする気配を察するたびに茉莉は息をつめて俺をうかがう。茉莉は兄の妻であり家族だ。俺には妻も彼女もいない。帰らなくても誰かが困るわけではない。  茉莉の思い込みを解く機会を逸したまま、ずるずると同じ屋根の下で過ごす日々が半年の間続いていた。茉莉は今も相変わらず、俺を兄だと思っている。  照明を落とした通路を通り、最初の部屋へ足を踏み入れた。目を刺すような眩しさに思わず手をかざす。  砂漠の向こうに重なり合うピラミッドが目に入った。床に広がる砂漠は起伏がある。膝を高く上げ足を踏みしめるが、感触は硬い平面だ。地面の砂までも描かれている。砂漠は緩やかな斜面をなして壁面へとつながり、その向こうに青い空がある。遠くに小さくラクダと手綱を引く人の濃い影が落ちていた。  行儀よくスフィンクスが座り、大きな口を開けて俺たちを歓迎する。目が三日月型に笑っていた。  部屋を歩きまわり目で楽しんだあと、茉莉はスフィンクスに食われそうになっている写真を撮った。スフィンクスは嬉しそうに茉莉の頭にかぶりつこうとし、茉莉は驚いた表情を大袈裟に作っている。 「もう一枚!」  無邪気に手を振る。俺は苦笑してもう一度彼女にレンズを向けた。今度はスフィンクスと仲良く肩を組んでいた。シャッター音が響くと茉莉は俺に駆け寄った。 「次は、えっと」  俺は館内マップを見た。この美術館は順路がややわかりづらい。 「彗」 「……うん?」  俺はやや遅れて顔をあげた。 「彗は撮らないの」 「いや。俺はいいかな」  いくら兄の代わりとはいえ、並んで映るのは気が引ける。それに茉莉の知人が見ればあらぬことを言われるかもしれない。  茉莉が俺の隣に寄り添い、手にしていたマップを覗き込む。白い肌が間近になり、細い肩が触れる。俺は彼女に気づかれない程度に体を引いた。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!

15人が本棚に入れています
本棚に追加