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「あっちじゃない?」
「そうね」
返事をしながら茉莉は一瞬俺の表情を確認する。顔を見ても弟の昴太にしか見えないはずだ。そう考える割には俺も内心、兄になり切れているか自分をチェックしている。茉莉を慰めるためにはじめたことなのに、いつしか兄でいることに熱心になってしまっている。時々自分が兄なのか昴太なのかわからなくなる。
「もうすぐ結婚記念日ね」
先週の休日、散歩に疲れて立ち寄った安いコーヒーショップで茉莉が言った。
「どこかに出掛けない?」
「……そうだな」
茉莉にとっては二回目だが、俺と暮らしはじめて最初の結婚記念日だった。茉莉に本当のことを打ち明ける機会だという言葉を頭に浮かべ、いっぽうで一泊二日で旅行か、それとも日帰りかなと考えはじめる自分もいた。
茉莉は音楽に合わせて体をゆらせている。本人も気づいていない。
「ねえ、トリックアートの館にしない」
「え?」
兄と茉莉がはじめてデートした場所だ。俺は黙り込んだ。兄の聖域を踏み荒らしてしまうような気がした。
「いいね。でも結婚記念日なんだし、旅行もいい気がするけど」
「久しぶりに行きたいんだ」
もしかしたら茉莉も兄との思い出の場所に身を置くことで、目の前にいるのが昴太なのだと気づくかもしれない。俺は昴太に戻ることができる。
安堵する気持ちと、この生活が終わることへのわずかな落胆が入り混じる。兄であろうと試行錯誤することを除けば、茉莉との生活は快適だった。俺の帰りを誰かが待ち、帰るのを待つことは、兄と住んでいたころを思い出させた。離れれば兄の思い出を共有できる人に会えない。兄の話ができなくとも、茉莉の中に兄がいると信じられることが俺を支えていた。しかしいつまでもこの生活を続けることはできない。
「そうだね」
俺は昴太だ。兄の彗ではない。
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