トリックアート

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 エジプトを出て地中海という名の通路を通り、ローマを経て水の都ベネチアへ徒歩で向かう。カナルグランデ大運河でゴンドラに乗った。ゴンドラは本物だ。しかし半分だけで、船尾は絵画の中にある。絵をバックにした茉莉の背後に船頭が長いオールを手にして立つ。天井は蒼天だ。ゆるりとした風が吹く。空調さえ気分を演出する効果になる。運河は建物の間を流れ曲がりくねり、その先で見えなくなっていた。  茉莉の姿を写真に収めてからゴンドラに乗り込んだ。部屋は背後だけでなく、四方の壁すべてに景色が描きこまれていた。空間は四角なのにどこまでも景色が広がっているように見える。 「新婚旅行みたい」  ふふ、と茉莉が笑う。 「新婚旅行、行っただろ」 「沖縄にね」 「結婚の翌年の冬」 「うん。持っていく服間違えて、現地で慌ててパーカー買った」 「そうだった。沖縄は常に夏だと思ってた」  兄から事細かに聞かされていたおかげで、会話には困らない。結婚してからも兄とは頻繁に会っていて、茉莉が嫉妬するほどだった。  茉莉が俺に手を重ねる。茉莉は俺の方に頭を乗せ、体の重みが心地よい。胸が高鳴り、同時に罪悪感が薄く上ってくる。  茉莉はこのまま俺を兄と思い込んで生きていくのだろうか。茉莉が自分で気づく前に打ち明けるべきなのか。ほんの一時のつもりがずるずると先延ばしになっている。このまま茉莉といたいような気もする。けれど家族といる感覚だ。義姉に恋心が芽生えたわけじゃない。茉莉といることはまだ実家には話していない。自分の部屋にはずいぶん帰っていないけれど、契約もそのままにしている。 「前の彗に戻ったみたい」  茉莉は笑顔だが、声はどこか寂しそうだった。ふいに、茉莉は俺を昴太だとわかっているのではないかと思った。  きっと今が潮時なのだ。茉莉がわかっていても、いなくても、帰ったら本当のことを話そう。
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