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兄がいなくなってから半年。もう充分役目は果たした。俺は昴太としての人生を生きなければならない。
「彗、行こうか」
ぽつりと茉莉が言い、先にゴンドラから降りた。
「次はどこかな」
振り向いた笑顔が俺の胸を塞いだ。
でも兄はもういない。
アメリカ大陸へ渡りジャングルを探検して、太平洋をまた徒歩で越えた。万里の長城を歩き、インドで象に乗った。シルクロードを経て、ふたたびヨーロッパへ戻ってきた。
部屋に足を踏み入れると、そこは大聖堂だった。
正面に石造りの祭壇があり、周囲に天使が立ち並び俺たちを見守る。ステンドグラスから荘厳な明かりが差す。天井は吹き抜けになっていて、見上げるとアーチ状の梁が幾重にも描かれていた。
「彗、ここでなにを話したか覚えてる?」
「茉莉にプロポーズした」
「そうね」
ふふ、と茉莉が笑った。
俺はその様子が目に浮かぶほど細かに知っている。
「ここ、私と来る前にも来たでしょう。そのときのことも話してくれた」
「ああ……」
子供の頃の話だ。大叔父がまだ元気で、年に一回家族で遊びにきていた。兄はこのトリックアートの館が大好きで、毎回行きたいとせがんだ。
大聖堂の絵画とは思えない臨場感に目を輝かせ、兄は俺に尋ねた。
神様になにをお願いする?
えーと、兄ちゃんとずっと一緒にいられますように。兄ちゃんは?
昴太をずっと守ってやれますように。
それお願いじゃないよ。
いいだろ。……じゃあ、昴太がずっと元気ですように。
兄ちゃんのお願いにしなよ。
それが俺のお願いなんだよ。
ここには神様はいないけれど、兄は同じことばかり祈っていた。俺は小学校低学年まで体が弱かった。しょっちゅう熱を出し、両親や兄を心配させた。
「俺は……ただ、ずっと一緒にいたかっただけなんだ」
描かれた石像の天使が聖なるラッパを吹き俺を見下ろしている。
隣にいた茉莉がそっと手を取り、握りしめた。
「昴太だって、わかってるよ」
結局、俺はその日も茉莉に本当のことを話すことができなかった。
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