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「A電鉄ですが、川畑昴太さんでしょうか」
仕事から帰り、着替えているときに鳴った電話の相手がそう言った。定期券が改札に届いているという。ワイシャツにパンツという情けない格好で慌てて鞄を探ったが、やはりない。明日でいいという考えがちらっとよぎったが、すぐ受け取りに行くと答え電話を切った。
夕食の支度をしている茉莉に声をかけた。
「ちょっと駅、行ってくる」
「え? もうご飯できるのに」
「定期落としちゃって。朝手間取ると嫌だから、行ってくるわ」
「そう。彗、寄り道しないでね」
「すぐ帰ってくるよ」
「うん」
マンションを出た瞬間身震いした。夜の空気はもう寒い。うっかりなにも羽織ってこなかったことを若干後悔したが、どうせ片道五分程度だ。俺はそのまま駅へ向かった。
「これお名前違いますけど、ご家族ですか?」
改札で財布から出した身分証を見せると駅員が怪訝な表情をした。
「え?」
「代理の方の場合、委任状が必要なんですけどお持ちですか」
差し出された免許証を見た。
「……また、出直します」
駅員から免許証をひったくるようにし、改札に背を向けた。
駅を出た俺は呆然と夜の道を歩いた。
免許証は俺のもののはずだった。
写真は俺の顔だった。
すれ違う人と目が合い、そらしうつむく。半年間いた街の景色が別の場所に見える。自分自身が世界から切り離されていく感覚がした。額から冷たい汗が流れる。息が切れる。叫び出したい衝動が体を走り抜けた。しかし叫ぶことはできず、俺は夜の街を歩き続けた。
写真の横にあった名前は川畑彗。
俺は川畑昴太のはずだ。そうでなければならない。
そうでなければ、昴太は。
「彗」
はっと顔を上げるとそこに茉莉がいた。
「茉莉……どうして」
「なかなか帰ってこないから探しにきたの。……これ」
茉莉がコートを差し出した。袖を通し、自分の体が冷え切っていたことに気がついた。
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