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玄関からリビングに世界を変えるドアを開けると西日の中でマモルさんがソファに腰を掛けながらテーブルに広げた参考書や資料に目を向けたまま「おかえり」と言った。
「あれ、リビングで仕事? 珍しいね」
「気分転換。君もなかなか珍しい時間に帰ってきたね」
「うん。仕事終わりにちょっと友達とお茶してきた」
午前から夕方の前までか、昼過ぎから夜まで。そのシフトの存在しか知らないマモルさんには夕と夜の間であるこの時間の帰宅は確かに珍しく感じるだろう。そんなことも頭から抜けて、なんのアリバイ作りもせずに素直に帰ってきてしまった。そしてその割にさらっと、しゃあしゃあと口から出任せが溢れていた自分にも驚きながら、その驚きすらも見せずに何事もない顔でジャケットを脱ぎながら自室に向かい、ドアを閉めた。
今日も変わらず三軍に落ちたTシャツとパジャマのズボンに履き替え、一旦ベッドに潜り込む。いつもと同じことをしているという安心感が少し生じたこの動揺を収めてくれる気がした。
どうして今日に限ってマモルさんはリビングにいたのだろう。別にリョウに抱かれてきたわけではないから今日に限っては疚しいことなんてないのに、二人の男に同時に会ってきたということが何故か抱かれた日よりも罪悪を抱かせている。
ゾワゾワとした焦燥を打ち消すように掛け布団に鼻を埋めると嗅ぎ慣れた自分の匂いがして心臓が落ち着いて行く。首筋に顔を埋めたときにの他人の香りには身体が絞られるような動悸を感じるのに、自分の匂いはその逆の作用があるのか。香りって奥が深い。
数分か、もしかしたら一時間近く。誰が聞いても平常心と言える鼓動に落ち着いた辺りでノソノソと起き上がり、タンスからバスタオルと替えの下着を取り出して自室のドアを開けると、もうリビングにマモルさんはいなかった。私が匂いを武器に鼓動と戦っている間に自室に戻ったんだ。その物音に気付かないくらいの大戦争が私の内に巻き起こっていたのか、それともマモルさんが私に気付かれないように静かに行動したのか。真相はわからないし、そこまで重要ではないと思いたい。
私はマモルさんに聞こえるように普通にドアを閉めて、足音を立てながら浴室へ向かった。
濡れた髪をバスタオルでゴシゴシと荒く拭きながら冷蔵庫から500mlの水のペットボトルを取り出し、静かなリビングの無機質なソファーへドスンと遠慮なく腰掛ける。全てを洗い流したこの状態でなら変な警戒をすることなくマモルさんと話ができる。出てこないかな。マモルさん。そんな思いを込めて私は必要以上に物音を立てる。
水を三秒くらいかけてペットボトルの三分の一くらい飲んで、その間に止まっていた呼吸を取り戻すように深呼吸をしたけれど、それ程度の音ではマモルさんは出てこない。諦めて携帯を見るとメッセージがいくらか溜まっていたので、マナーモードを解除してラインを開いた。
どうでもいい企業アカウントの100件を超える未読通知。その中で未読件数の少なさを主張するリョウ、そして定期的に既読にはするものの返信することが少なかったロミオくん。その二人の名前が上に上がってきている。
「また今度ね」
リョウからはそれだけ。いつも不意にマモルさんに見られてもなんとでも言い訳の通る内容に留めてくれている。でもその内容の裏に込められているのは「また今度ホテルに行こうね」という低劣の限りを尽くしたものなのだけれど。
「今日は美月さんに会えて本当に嬉しかったです。僕が美味しいと思ったものを美月さんにも美味しいと言って貰えるの、本当に幸せ。また美味しい物、食べに行きましょう。この前美月さんが気になるって言ってた映画、まだ見てないですよね。良ければ一緒に行きませんか? 」
逆にロミオくんは誤解しやすいように曲解してくれる。SNSでの内容を私と顔を合わせた時の会話の内容のように表すし、三人で会ったことも二人きりのように扱う。でも今まで得体の知れない冷たさを感じていた彼からのメッセージも先程彼の人としての温度を知ったことで恐怖が薄れていた。
まあ、映画には一緒に行かないけど。
そんなメッセージたちを既読にして、私はテレビの電源を付ける。見たい番組があるわけじゃない。私は今リビングで暇をしているということをマモルさんに知ってもらいたいだけ。それだけ。
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