星喰い(別バージョン)

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 百年に一度のなんとか流星群が見られるとかで、テレビも新聞も雑誌も、職場でもその話題で持ちきりだった。 朝の通勤電車の中づり広告までも、うるさく知らせてくれたが、如何せんわたしは、そうしたロマンチックなイメージのはりついたものにさほど、動揺しないようだ。誘惑されない。感動しない。かと言って、不干渉だが、不感症な訳ではない。 おとぎ話の世界や、物語のなかでなら、ふむふむと思わないこともないのだが、実際の「天文学」は、ただの計算式の山なのだから、あんまりひどい。どの方向に宵だか明けだかの明星が昇ろうと、わたしの腕では観測できない。天文台で買った、五千円の望遠鏡も、今じゃ埃をかぶって、長い眠りに入っている。でも、やり方が間違っているとは思わない。得てして、こんなものだろうと、思う。だから別に、どうということはない。上を見れば、星など、いくらも見えるじゃないか。 しかし、そんな女をロマンに浸らせたい、奇特な男も稀にいる。秀雄は、二つ年下の大学生だが、こいつが、またわたしと正反対に、浪漫を追いかけるのに精を出す。百年に一度と言うことは、つまり一生に一度と言うことであり、そりゃあ、何がなんでも拝まにゃあならん、と嫌がるわたしを連れだって、近くの山に登るはめになった。そうして、道は塗装されて、開拓されているにも関わらず、わたしと秀雄は物の十分も経たないうちに、離れ離れになってしまった。 つまり、方向音痴のわたしが、道に迷ってしまったのだ。迷いようがないほど、舗装されていた道を上っていたにも関わらず、いつの間にか秀雄とはぐれてしまっていた。 辺りは暗く、外灯の明かりさえも見えないことに、困惑した。こんなことが、実際にありうるのだろうか。混乱する気持ちを落ちつけようと、はぐれる前までの状況を思い起こした。 「星座ってもともとは、時計代わりに使われていたもので、そんなにロマンチックなものじゃないんだよ。古代人が、昼は太陽、夜は月と恒星って形で、だいたいの時間を把握していたんだよね。日本だって都道府県に分けるだろ。そんなものでさ、後の学者たちが、広い宇宙を把握するために、使用していたんだって」など、聞いてもいないのに、どこから得たのか知らないうんちくをたれる秀雄の後ろを、歩いていた。 たしかに慣れない理屈の風に、耳を打たれてはいた。こんな話がかれこれ、二十分は続いていたのだから、だいぶ神経は削りとられてはいたし、うんざりもしていた。だからと言って、それだけで、わたしは目の前の人間を見失うほど、認識能力を欠如させた覚えはない。 もちろん、坂道なのだから、足元ばかり見て歩いていた。秀雄が前にいるかどうか、いちいち確認などはしていなかった。しかし、雪深い山奥じゃあるまいし、多少置いて行かれたとしても、彼の姿を見失うはずがない。それにも関わらず、ふと顔を上げて見れば、秀雄はいなくなっていたのだ。真っ暗闇のなかで、一人ぽっちになってしまった。信じられない。 辺りは木々に囲まれた藪の中だ。枯草が夜風に吹かれ、かさかさと鳴っている。おかしいとは思ったが、しばらく歩けば、いずれどこかに出るだろう。と、この段階では、まだ現状を楽観視していた。置いて行った秀雄に、恨みごとさえつぶやく余裕もあった。 しかし、歩けど、歩けど、舗装された、コンクリートの道には出ない。やわらかな腐葉土と、赤土や黒土と、木の根ばかりをふみ分けて、進んでいる。もちろん、登ってはいない。下っている。遭難したときは、山を下ったほうがいいはずだ。たしか。いや、常識で考えて、登ったら、もっと迷うはずだ。 下に降りて行けば、必ずどこかの公道に出るはずだ。だって、散々、人に開拓されている無残な山なのだから、そんなに深い森な訳がない。しかし、そんな山で遭難しているということが、そもそも、おかしなことなのだから、もっと慎重に行動すべきだった。と、あとから気がついた。が、どうしようもない。  足が重く、前に出ない。吐き出す息も、切れ切れになってきた。時間の感覚がなくなってきたころ、思いついて、携帯電話を開いた。やはり、と落胆した。電波など通っているはずがなく、淡い希望は打ち砕かれたが、それ以上に、不気味な表記を目にして、言葉をなくした。 十二時半ぐらいに秀雄と、この山の中に入ったはずだ。しかし、携帯電話の液晶に浮かんでいるデジタルの数字は、一時をさしたまま、止まっている。確実に、迷ってから一時間以上は経過しているはずなのに、時計はあたりまえのように、現在の時刻を、わたしに知らせていた。 ついに、頭でもおかしくなったのかと、尻もちをついて、頭を何度か叩いてみたが、夢から覚める気配はない。待てよ、と思いなおす。そうだ、途中で携帯電話も壊れてしまったのにちがいない。そうでなければ、こんなこと、道理も理屈も通らないじゃないか。 わたしは、携帯電話の故障ということに落ち着いて、それをズボンのポケットにねじこむと、あまりの疲労感に、肩を落として、ため息を吐き出した。下っていたはずなのに、ますます迷いこんでいるような気がしてきた。 ああ、どうしよう。頬をなでる夜風はつめたく、身ぶるいした。春先とは言え、このまま、夜通しこんなところにいたのでは、さすがに凍死してしまう。残念ながら、食うものも、飲むものも、なにも持っていない。財布など、店がなければなんの役にも立たない。どれだけ、歩いても道には出ない。携帯電話は壊れている。体力はもうない。疲れた。帰りたい。寝たい。くそったれ。ああ、いやだ。ああ、どうしよう。  いい加減で、うんざりしてきた時だ。 突然乗った肩の重みに、どきりとした。勢いよく立ちあがると、相手も驚いたのか、数歩、後ろに下がった。あわてて、振り返ってみると、鬚を生やした、背の低い老人が立っていた。そのときにようやく、肩に手を置かれたのだ、と思った。 その老人は照らすものを、なに一つ持っていないのに、全身が淡い光に包まれていた。よく見ると、青や白の光の粒が、彼の全身をおおい、蛍火のように明滅しているようだった。 霊感もないのに、ついに見てしまったのか、と内心で舌打ちをした。ただでさえ、理不尽な危機的状況に腹を立て、うんざりしていたところなのに、そのうえ自縛霊なぞにかまっていられるか。なぜ、見たくもない星を見ようとして、こんな目に合わなくちゃあ、ならないのか。ちくしょう、とその老人を睨み、くちびるを歪めた。  しかし、老人は力のないぼうっとした青い目で、しばらくわたしを見つめてから、首をかしげた。その目に、邪気はなく、敵意も感じられず、じっくりとわたしを観察しているようだった。  「なんだあ、しろめしじゃねえか」  わたしを指さしてそう言うと、小さなため息をついた。老人の言った意味がわからず、眉間に皺をよせると、老人も同じように眉根をよせて、しばしうなった。  「まただ。また、しろめしが釣れた。おい、あんた。そうだ、あんただよ。どうせ、道に迷ったんだろう。まったく、しろめしには間抜けが多いんだ。明かりがないぐらいで、家にも帰れなくなるんだからな。まさか、この夜に来るとは。まったく、運が悪い。おれはいつも運が悪い。ああ、しょうがねえ。ついて来な」  そう言って、老人はゆっくりと、歩きだしてしまった。わたしは、冷え切った額の汗をぬぐって、ちょっと待って、どういうことなの?と、あわてて、後を追った。 しかし、老人はうんざりしているのか、不機嫌なのか、どうにもわからないが、口をきいてはくれない。このままついて行っていいものか、一瞬迷ったが、これ以上こんな何もないところに居ては、いずれ本当に凍死してしまう。 幽霊でもなんでも、案内してくれるんだったら、このさい細かいことはどうでもいい。疲弊しきったいまの状態では、抵抗する気力さえ湧いてこなかった。悪いものではなさそうだし、一応、言葉は通じているようだから、まあ、いいか、とわたしも黙って、老人の後をついて行った。  十分か、十五分ほど歩くと、小さな小屋が見えてきた。 窓から見えるオレンジの明かり、煙突からのぼる白い煙に、どうやら、老人はここで暮らしているらしいことがわかる。 しかし、こんなところに民家などあっただろうか。おかしい、とは思ったが、ともかく人に会えた、と言うよろこびの方が優ってしまった。こんな何もない森の中で、一人ぽっちになるのは、想像するよりも心細いことなのだ。 老人は、おぼつかない足取りで、小屋の階段を上がると、木の扉を押して、中に入った。わたしも、恐る恐るそれに続いた。歩くたびに軋む床に怯えながら、中を見渡した。 外観よりは広く、見通しのいいところだった。戸棚にはみかづき型の何かが置いてあり、暗くてよく見えなかったが、器か何かだろう。その横には、何冊かの本が積まれていた。 『月のつかまえかた、食べかた』 『星の落ちる時期、時間』 『宇宙・恒星史 序説』 『座にある星の調理方法』 『あまのがわ論』 など、どこから出ているのか、知らない本ばかりだった。 床には、緑のゴムボール、透明の袋に入ったこんぺいとう、灰色の釣竿、黄色い風呂敷包み、など、これまたよくわからないものが、あれこれ転がっていた。ぼんやりと、中を見まわしていると、ぼやぼやすんな、もうすぐ降ってくるから、扉を閉めろ。と、厳しい声で言われ、ハッとした。 雨でも降りそうなのだろうか、と外に出て、空を見上げたが、雲ひとつない、澄んだ夜空だった。つめたい風が吹き込んでくるので、炉の火が消えたら困るのだろうと、言われた通り、扉を閉めた。  振り向くと、老人はロックチェアーに腰かけて、炉に向かって暖まっているようだった。しわくちゃの両手をもみながら、なんだあ、とろいしろめしだな。早く、どこでもいいから座っちまえ。と、手持無沙汰に立ち尽くしていたわたしに向かって、面倒くさそうに言った。 なんだか、自分が小さな子供のように思えて恥ずかしくなったが、悪い気はしなかった。言われた通り、炉のそばの丸太の椅子に座りこんで、冷えた指先をもんで温めた。  「しろめしって、何?」  ふと思った疑問を口にした。すると、意外にも老人はわたしの方を向いて、笑ったのだ。そのくちびるからのぞいた歯も、ほのかに青く光っていた。  「お前たちのことだ。お前たちは、しろめしを喰うだろ。だから、しろめしだ」  「そんな」あんまりだ、と顔を歪めたが、老人は気にした風でもなく、その青い双眸を細めて、目もとに細かな皺をよせていた。「じゃあ、おじいさんも白飯ですよ。あなただって、食べるでしょう」  老人は、鬚をなでながら大きな声で笑い出した。  「いや、おれはそんなまずいもん喰わねえよ。ありゃ味がねえだろ」  「じゃあ、パン?」  「小麦粉は、南の方の連中の喰いもんだろ。おれは喰わねえよ」  「じゃあ、パスタ?それとも、肉、魚、野菜、豆、果物?」  「喰わねえ。そんなもん喰ったら、体が重たくなって仕方ねえ」  わたしはむっとして、食わねえ、食わねえ、って、じゃあ、あなたは何を食べるんですか。と、くちびるを歪めた。 返事がないので、おかしいなと老人の方を見ると、彼は目を見開いて、突然、立ち上がった。それに驚いて、わあ、と小さな悲鳴を上げ、床の上に転がってしまった。老人は、わたしの体をまたいで、小走りに窓の方へ走って行った。  「おい、しろめし、来るぞ」  老人は、嬉々とした声をあげて、窓の外を指さした。来るって、なにが来るんですか。わたしは、のろのろと立ち上がって、窓の方へ向かった。老人の頭の上から、外をのぞきこんで、絶句した。  ガラスに光の粒がぶつかり、はじけて、消えたのだ。 はじめ、雨かと思ったが、そうではない。大小さまざまな光の粒が、青や赤や白に、一瞬間、燃えあがり、ぶつかっては、また消えていった。光の明滅が、弾けて飛び散る。地面に落ちた光は、すごい速さで駆けて行き、小屋の周りを走り、森のなかへと消えて行った。シン、と静まり返った闇を見据えていると、また空から、いくらも光が降ってくる。光線は、地に落ちても留まることを知らない。 空を見上げると、同じような光の粒が、次から次へと降ってきて、この辺り一帯を、燐光でうめつくしていた。くぼみのあるところには、光が溜まり、水たまりのように、かがやいている。  星だ。星が降ってきたのだ。わたしは、ぽかんと口を開いたまま、阿呆のようにそれを見つめていた。夢でもみているのか、やはり頭がおかしくなってしまったのか、窓を打つ光を見るたびに、目をぱちぱちとさせた。  「今日は、年に一度の大収穫の日なんだ」  老人は、いつの間に戻ったのか、ロックチェアーに腰かけたまま、窓の外をながめて、苦笑いを浮かべていた。そうか、これは、流星群なんだ、と思う。しかし、と首をかしげて、口を開いた。  「百年に一度でしょう」  「そりゃ、お前さんらの言う年だろ。おれたちにとっては、年に一度さ」  「おれたちのって」  喰い下がろうとしたわたしに向かって、老人はわずらわしそうに、片手をふった。  「そんなこと、あとで詩人か、哲学者にでも聞きな。それよりな、しろめし、くっちゃべってる暇はねえぞ。止んだら、行かなきゃならねえ」 老人はそう言って、埃だらけの戸棚を開けた。がたぴし言いながら、開いたそこから、わたしが小屋に入る時に見つけた、みかづき型の器を取り出した。 ほれ、と下弦の形をした月をわたされ、仕様がなくそれを受け取る。やや重く、触り心地は石の表面のようだった。中はくりぬかれているので、空洞だ。それを覗き込んでいると、老人は愉快そうな声を上げて、笑った。  「こいつは、釣竿で釣ったのよ」そう言って、老人は誇らしげにそのみかづきを、かかげて見せた。わたしは顔を上げて、目を見張る。こいつを、釣った?  「これは、なんなの?」  眉間に皺をよせて、老人を見ると、心底から呆れた表情をしていた。お前そんなことも知らねえのか。と、またため息をつかれる。 知らないもなにも、「釣る」という行為は、動いている生き物を、捕える時にしか、あてはまらないのじゃあないか。だいたいにおいて、魚とかそういうものを「釣る」のであって、こんな石の塊など、釣ったりしない。  「いいか、これは月だ。これで、星を釣る」  星を釣る?わたしは、思わずふきだして、笑った。  「あのね、月って、地球よりは小さいけど、もっともっと、ばかでかい星なのよ?こんな両手でおさまる程度の大きさなら、誰だって捕まえられるじゃない。そもそも、月なんか落ちてこないし、ましてや川や海に泳いでるものじゃないのよ」そう言って見ると、今度は老人がふきだし、笑っていた。膝を叩いて、涙まで浮かべている。  「お前は馬鹿だね。月は毎朝、落っこちてきてるじゃないか」  子供を諭すときのような、やさしい声で言われ、むっとした。まるで、わたしのほうが変なことを言っているみたいじゃないか。冗談じゃない。  「それは、地球が回っているのと、太陽の光で見えなくなるだけで、月がなくなる訳じゃないでしょう。その理屈でいくと、太陽だって、夜には落ちてきてることになるじゃない。大変なことよ」  「うん、それは知っていたか。でも太陽なんか喰えねえからな。おれは、釣らねえ」  「月だって落ちて来たら、地球はおかしくなるよ。どうして、海に波ができると思っているの?月がなくなったら、自転と重力がおかしくなって、すごい勢いで回っていた地球も止まるわ。そうしたら、大津波が起こって、すべておじゃんよ」  「お前は馬鹿だね。だから、新しい月が毎夜、空に登っているんじゃないか。おれが釣るのは、落ちてきた月だよ。空にも登れると思うとるのかい?」  「そうじゃなくて」  わたしは、頭をがしがしとかいて、うなだれた。老人はくすくす笑いながら、お前も喰ってみりゃ、わかるさ。と楽しそうに言った。その言葉に、ハッとして見ると、老人の体は、はじめに会った時と同じように、ほのかに光りかがやいている。それは、窓ガラスを打つ星の粒と、同じかがやきだった。  「まさか、星を、食べてるの?」  頓狂な声を上げると、老人はにっこりと微笑み、平然と答えた。  「そうさ。おれは、星喰いだからな」  わたしは息をのんで、手にしていた下弦の月を見下ろした。では、これは、食べた跡の殻だとでも言うのだろうか。どうかしている。  「星もうまいが、特に月は格別だ。ぷるぷるで、やわらかくてな。最初はあったかくて、甘い。でも、すぐつめたくなって、かさかさになる。最後には、かちかちに凍るぞ。だから、よく噛んでからじゃないと飲みこめねえ」  老人は月の味を思い出しているのか、うっとりとした表情で、語った。わたしは信じられず、ただ黙って彼の話を聞いているしかなかった。しかし、もうすでに、信じられないものをこの目で見ている。流れ星が降ってきたのだ。それは、誰かが悪戯でしかけた、打ち上げ花火でもなんでもない。本物の、星のかがやきだった。  流線型を描くように滑空したかと思えば、ますます、降下し、地上を走る。切れ切れの光が、放物線を描き、夜の闇へと溶けるように消えていった。 彼らは生きていた。目や鼻がついていた訳でも、息をしていた訳でもない。それでも、あの星の大群勢は、いまもこの小屋の周りを光で満たしているのだ。 想像もつかない、何億光年という、はるかに長い時間をかけて、遠い距離をかけぬけ、この大地に一瞬にして降り立った。それを、この老人は、いとも容易くつかまえ、食っている。それが、彼らの生活なのだそうだ。ずいぶんな、おとぎ話である。  「でも、」月のごつごつとした表面を指先でなでながら、苦笑をもらした。「そんなにたくさん、月なんか落ちてくるもんですか?」  老人は、青い瞳をぱちぱちとさせてから、鬚をなでて、頭をかいた。ふむ、と小さくうなずいて、立ち上がると、床に転がっていた灰色の竿を手に取った。上弦の月を脇の間にはさみ、扉を開けると、やい、しろめし、とわたしの方をふり返った。  「運が良けりゃ、今日も釣れるだろう。ついでに、星もな。お前さんも手伝え」  わたしは、しばらくぼんやりとしていたが、すぐに立ち上がって、老人の後に続いた。 星はすっかり降りやんだのか、辺りは、朝露にぬれたように、透明なかがやきを放っている。それを踏み分けながら、どうして、降っている間につかまえないのか、聞いた。だって、バケツでもなんでも、外に置いておいた方が早いじゃないか。雨水だって、そうやって貯まっていくでしょ。そう言うと、老人はまた呆れたため息をついた。  「しろめしってのは、本当になんもわかってねえな。水とちがって、星は自在に動くんだ。そんなことしたって、逃げるだろ」  「じゃあ、どうやったら捕まえられるの?もう、みんな逃げた後よ」  靴の下でかすかに青く光る芝を踏みながら、うんざりとした声を上げる。老人は長いため息を吐いて、いいから黙ってついてこい。と、どんどん森の奥へと進んで行った。まだ、黄色い燐光を灯す、木々の間を抜けながら、わたしは小さく肩をすくめて、のろのろとその後をついて歩いた。  しばらく林の中を下っていると、暗闇の奥から、にぎやかな声が聞こえてきた。同時に、藪の向こう側で、何かが、きらきらとかがやいているように見える。 それは、降り終わった後のかすかな光の粒よりも、まぶしく、力づよいかがやきを放っている。光が目を刺すようだった。あまりのまぶしさに、目を開けていられなかった。瞬きをくりかえしながら、速くなる心臓の音を間近に聞いていた。森を抜けて、徐々に慣れてきた目が映し出した光景に、もう一度、言葉を失った。  はじめ、火薬の渦が、弾けているのかと思った。 大きな川の流れのなかで、はしゃぐように弾け、飛び上がる光の粒は、星の粒だった。赤い光の群れが、次から次へと飛びあがり、しぶきを上げて、また水中へともぐっていった。黄色い光の粒は、水面に上がってきてはもぐり、岩にへばりついて、流されまいと、左右にゆれていた。青い光は、白い光と交錯しあい、重なり、反発しあい、川の流れに沿って、あるいはそれに逆らい、泳ぎながら明滅をくりかえしている。 多彩なかがやきの群れの、変幻自在な動きと、何百、何万という光の粒の数に、まるでひとつの銀河を見ているようだった。いや、ここはすでに、ひとつの小宇宙なのだ。  「これが、天の川だ」 ぽかん、と口を開けていたわたしを笑いながら、老人は川を指さした。 「天の川ってのはな、空にあるもんじゃねえのさ。一年に一度、こうやって川に降りそそいだ星たちがな、水の中ではしゃいで、騒いで、朝になるまで遊びまわる日なのさ。そいつらをな、俺たちは朝になるまで、捕まえられるだけ捕まえて、喰うのさ」  老人は、生き生きとした声でそう言うと、舌舐めずりをして、川べりに向かって歩き出した。わっ、待ってよ。わたしは、泥で足をすべらせながら、あわてて老人の後を追った。  「やあ、星喰い。今夜も元気に大量なようだよ」 すると、老人に向かって手を振りながら、親しげな笑顔を浮かべる男が声をかけてきた。彼は坊主頭で、そのてっぺんはやけにとんがっていた。右目だけが異様に細く、目の下に深いくまを浮かべていた。老人はその男に手をふり返すと、わたしに向かって、こいつが、哲学者だ。と、ささやいた。哲学者は近づいてくると、わたしのことを興味深そうにじろじろと眺め、微笑みを浮かべ、右手をさしだしてきた。  「今晩は、しろめしのお嬢さん。どうやらこの奇怪な森に、迷い込んでしまったようですね。君は、哀れなストレイシープな訳だね。突然のことで、とまどっているようだ。無理もない、なに安心なさい。星喰いも、僕もいるのです。怖がることはありません」  礼儀正しい振舞いに驚いたが、すぐにその手を握る。哲学者の笑みに安堵して、二三度その握った手を振ると、苦笑をもらした。  「あなたは普通の人のようですね」  わたしの言葉に哲学者は握っていた手を離して、くすくすと笑う。これで、どうかな?と、言って老人と目を見合わせた。老人は、握手のことを指して、いまのは何だ?と、首をかしげた。  「握手というものです。しろめし同士で行うあいさつですよ。いいですか、星喰い。彼らは、自分たちと同じ文化を示してくる対象に対しては、警戒心を解く、単純な生物なのです。コミュニケーションツールというものを、ずいぶん、大切にしているのですよ。だから、本当の言葉には弱い。重たいものから、すぐ逃げ出そうとするのです。だからね、まずは軽やかに。そうしたら、あなただってこれまでも、怖がられることは、なかったでしょうに。不器用な人だ」  老人は、ふん、と鼻を鳴らして肩をすくめるだけだった。それでも哲学者は、老人に対して好意的で、にこにこしている。二人は仲が良いようだ。 わたしは、なんだか、すごく馬鹿にされているような気もしたが、向こうに悪気がある訳ではなさそうだし、案外と間違ってもいないので、黙っていることにした。哲学者は、わたしが手に持っていた下弦の月の殻を見つけて、にっこりと微笑んだ。  「これは、意外だ。いや、失礼しました。お嬢さん。どうやらあなたは、これまでに会ったしろめしとは、ちょっと違うようですね」  なにで判断をしているのか。もう、こうなってはさっぱり、わからなかった。  「はあ、そうですか。でも、まだ半信半疑ですよ」  「結構、結構」  小さくうなずいている哲学者に、老人は真剣な顔をして「こいつは、月や星についてはなんも知らねえ、素人だけどな。太陽が落っこちてくることは知ってたぜ」と、言った。 哲学者は、ほう、それは、すごい。奇跡だ。と、嘆声を上げてよろこんでいた。まるで、密室に隔離された猿が、吊り下がっていたバナナを、自分で考え、道具を使って取った時のような反応だ。つまりは、すごく馬鹿にされているのだろう。しかし、わたしから見ると、この大げさなやりとりの方が、よほど滑稽に見えた。  老人は足元に釣竿を置いて、わたしの方を見ると、ちょっと釣ってきてやるから待ってな。と、川のなかへと入って行った。 腰から下を、星の流れのなかにひたして、持っていた上弦の月を水面に浮かべた。からっぽの月は、しばらく光の上でたゆたい、ゆらゆらと揺れてゆっくりと静止した。すると、ごつごつしていた灰色の表面が、ほのかに光りはじめたのである。 それは、星のかがやきだった。水底ではしゃぎまわっていたいくつもの星の群れが、月の殻のなかに集まりはじめたのである。それによって月の殻は、青や、赤や、黄や、白へと変化し、明滅をくりかえしていた。  「光は内側へと帰りたがるのです。それが、エネルギーのあるべきところですからね」  哲学者は、肌色のとんがった頭をかきながら、微笑をもらした。 「僕が、あまの川論のなかで、書いていますが、星は地上の水の中では、失速します。だからこそ、一晩かけて、光り続けるのをやめないのです。時間の分裂と、衝突ですね。そして、朝になると同時に、星は太陽の熱に焼かれ、蒸発し、大気のなかへ、陽射の光線のなかへ溶けて、地球の一部になるのです。そのとき、登っていた月も落っこちてきます。もちろん、この川の上へです。朝日の中でなら、月もまだ溶けません。恒星と違って、少々でかいですからね。しかし、一時間もすれば、月も大気へと溶けてしまいます。ごくわずかな時間のなかで、その月を釣り上げることができるのは、この辺りじゃ、彼だけでしょう」  そう言って、哲学者は羨望のまなざしで、老人を見つめた。わたしは、手にしていた下弦の月の表面をなでながら、ため息をついた。それに対して何を思ったのか哲学者は、苦笑をもらし、右目を歪ませた。わたしは哲学者の方を向いて、素朴な疑問を口にした。  「あなたも、星を食べるの?」  わたしの無遠慮な言葉に、彼は一度おどろいたように目を見開いたが、すぐに、ははは、と大きな声で笑ってから、失礼、と咳払いを一つした。ズボンのポケットから、煙草を取り出して、それに火をつけると、うまそうに白い煙を吐き出した。  「僕は、哲学を喰うんですよ」  わたしは困惑し、返答に窮した。それを察した哲学者は、煙草をのみながら、二三度首肯して、口元を歪めた。 「簡単に言いますと、世界中の哲学を主食にしているのです。観念から、概念まで、それは、はば広くね。おや、わかりませんか。そうですね、辞典をお引きなさい。哲学辞典です。それの最初に出てくる言葉は、愛でしょう。時間性、空間性、実存、関係、精神、唯物、弁証、現象、そういうものを、喰うんです。もちろん、一口に哲学と言っても、それは多種多様だ。生物、自然、政治、経済、法、社会、芸術、あらゆるものごとに、それらは関わっていますからね。とらえがたいものですが、そういうものをとらえて喰うのが、哲学者なんですよ」  さすがに信じられなかった。そりゃあ、星を喰うのも信じがたい。しかし、これは別の話じゃないのか。なぜって、星を喰うことに関しては、わたしもその現象のなかにいる。つまり、わたしみずからが、妙な状況を体験しているからだ。手で触ることもできるし、目で見ることもできる。星は確かに降ってきたのだ。生きて、走り回っていた。それを、わたしはこの目で確認している。そして、月の殻も手にしている。いま、目の前で、この殻を使って老人が、星を釣り上げているのも、そうだ。夢かもしれない。それでも、わたしにとって触れることのできる、確かな現実である。 だからこそ、想像もつかない出来事に対して、多少なり受け止めることができる。しかし、哲学となると話は別だ。だって、わたしは実際に哲学を食べているところを、見た訳でもなく、ましてや「哲学」など、食ったことがないからだ。もう少し簡単にそううったえてみると、哲学者は愉快そうに目を細めて、にこにこと笑いはじめた。あなたは、なんと素晴らしいのだろう。と、うれしそうに言った。  「気をつけてください。それ以上、おもしろいことを考えたり、言ったり、ましてや僕と討論などしたら、喰ってしまいますよ」  そうして、ははは、と笑った顔は無邪気なもので、それがなおいっそう不気味であった。哲学者のするどい眼光にとらわれ、背筋が寒くなる。 どういうことなのか。いや、つまり、そういうことなのだ。彼は、哲学を喰うと言った。おそらく、思索の内容を、どうやってかは知らないが、喰っている。しかし、それだけではないようだ。  わたしはじとりと、手のひらに汗をかきながら、さりげなく哲学者の横顔を盗み見た。その口元の隙間からのぞく、鋭利な歯が、沈黙のなかで、わたしに語りかけているようだった。  「あなたって、哲学じゃなくて、哲学者を食べてるんじゃないの」  息をのんでつぶやくと、哲学者は苦笑をもらして、そういう場合はごく稀にです。と、言った。吐き出した白煙が、音もなく空中をただよう。手にしていたたばこの火をもみ消して、ふう、と小さくため息をついていた。 半分は冗談のつもりだった。だからこそ、恐怖心が増した。哲学者がこちらに顔を向けたので、わたしは思わず、ぎこちない動きで、視線をそらしてしまった。  「おい、しろめし!」  いいのか、悪いのか、絶妙なタイミングでわたしを呼んだ老人に、この時ばかりは感謝した。 突然のことに、顔を上げると目の前で、不機嫌そうに眉をよせた老人の顔があった。光かがやく月の殻を両手で支えながら、いいから、お前さんも手伝え、と言った。わたしは、あわててその月の殻を受け取った。 すると、不思議な感覚にしばしとまどった。たくさんの星が水のように溜まっているのに、さっきよりも軽く感じたのだ。そのため、力加減をまちがえ、あやうく芝の上に、ぶちまけてしまうところだった。こりゃあ、いかん。と、右足をふんばり、体制をととのえた。震える指で支えながら、なんとか、月の殻を岩の上に置くことができた。 わたしは、ようやくホッとして、肩の力を抜いた。一部始終を見ていた老人は、不機嫌さを増して、わたしを叱った。お前、わかってんのか、そりゃあ、この先の大事な食糧なんだぞ!口角泡を飛ばすとはこのことだ。頬についた唾をぬぐいながら、ため息をついた。 そう言われても。こっちはそれどころではなかったのだ。突然、訳のわからないものを渡してくるほうが、悪いじゃないか。むっとして、老人を見上げると、隣に立っていた哲学者が止めに入った。  「まあまあ、重力のちがいがあります。でしょう、お嬢さん」  わたしは、唾を飲み込んでから、小さくうなずいた。  「ええ、まあ。さっきより、軽くなっていたので、驚きました」  そうつぶやくと、哲学者は坊主頭をぼりぼりとかいて、右目を細めて笑った。先ほどまでの会話を思い出し、わたしはそれ以上言葉を継ぐことができず、黙りこんだ。老人は、大きなため息を一つだけついて、わたしの頭を一度だけぐしゃり、となでた。  「まあったく、子供はしょうがねえ。本当にお前さんはなんも知らねえんだなあ。いいか、星を月の中に入れると、軽くなる。重くなるもんはな、俺は喰わねえんだ」  横で黙って聞いていた哲学者は、あきらかに言葉の足りていない老人の説明に、苦笑をもらした。わたしは、じゃあ、食べすぎたら体が浮かんじゃうの?と、老人を見上げると、彼は微笑をこぼしてうなずいた。  「そこはわかってんじゃねえか。お前さんは、不思議な奴だね。そうだ、星は喰い過ぎると、死んじまうんだ。お前さんらだって、そうだろう?」  餓死はたしかにそうだが、食べ過ぎで死んでしまうという話など、聞いたことはない。もちろん、入院することにはなるだろうが、最悪でも、胃を壊して、物が食べられなくなるぐらいじゃないか。それでも、血液から栄養を取ることができるのだから、健康ではなくなるが、死ぬことはない。わたしがそう言うと、老人は目を丸くして、驚いていた。それを見兼ねた哲学者が、わたし達の間に割って入ってきた。  「僕も、そうなのですよ。お嬢さん。僕が、哲学以外の何かを食べた場合、おそらく、僕は僕ではなくなってしまうのです。極端に、吸収する物質に生かされていると考えてください。お嬢さん方よりも、食と密接な関係にあるのです」しかし、と哲学者は残念そうなため息をついた。 「お嬢さん。屁理屈を言うつもりはありませんが、あなたは食の重要さをご存じない。だから、先ほどのような、軽んじたことが言えるのです。ええ、つまり、血液からしか栄養を補給できない生物を、生きているなどと言うとはね。いいですか、味わう。感じる。そこが断絶された時、果たして、それで生きていると言えますか?精神と肉体の断絶は、死ぬことと同じだ。片方だけでは生きられないのですよ。胃腸が弱くなれば、気分も滅入る。気分が滅入れば、胃腸が弱くなる。あなたは、ドイツのある哲学者をご存じかな?彼は、やる気が出ないときは、とにかく睡眠を取れ、と言います。どういうことか、わかりますか?気分や、感情、精神の停滞を、肉体の問題として片づけているのですよ。それほどに、人間という動物の存在定義のひとつに、精神と肉体の合一、分離というものが関わっているのです」  「そんなこと」わたしは、たまりかねて肩をすくめた。「理屈をこねられたって困りますよ。わたしは、ただ、喰い過ぎて死ぬっていうのを、即死だと思ったんです。だから、爆発物でも食わなきゃ、喰い過ぎて死ぬなんて、想像ができないって、言いたいんです。それにしたって、失礼じゃないか。食えなくなったら、もう死んでるなんて。脳が死んでも、心臓や他の臓器だって、生きていることがあるんですよ?」  「お嬢さん、あなたも大概、生と言うものをわかっちゃいませんね。人間と言うのは、そのバラバラのピースを、統合して動いている生き物なんですからね。部分だけ生きていたとして、それはその人の臓器であって、その人ではないのですよ。だから、交換もできるんです」  「そんなの、価値観次第じゃないか。ことによっちゃ、生にもなりますよ。簡単に死んでるなんて、言いきれるもんか」  「ほう。君は、倒錯者なのか?」  わかった、わかった、とまだ何か言いたそうにしていた哲学者を押しのけて、老人はその場にしゃがみこんだ。岩の上に置いていた月の殻を持って、それをわたしと哲学者の間に置いた。  「ごちゃごちゃうるせえんだ、お前らは。いいか。うまいもんは喰う。そうじゃねえもんは喰わねえ。喰い過ぎても、喰わな過ぎても、つまらねえ。それだけだ。さあ、喰ってみな、しろめし。お前も、うまいもんをそろそろ知っていい年頃だろ?遠慮することはねえ。今年も大量だからな」  そうして、にこにこと笑う老人は、月の殻をわたしの目の前に差し出してきた。見ると、きらきらとかがやく星の粒が、殻のなかでくるくると回っている。これを、生きたまま食べろと、言うのだろうか。わたしは、唾を飲み込んで、しばし静止した。 しかし、老人は「生のままが、一番生きがよくてうめえんだ」と、なお、すすめてくる。哲学者も、今回ばかりは、止めに入る気などさらさらないようで、にやにやしながら、わたしの顔を見つめていた。  殻のなかをのぞきこんで、頬を引きつらせる。星の粒は一様に、そのかがやきを衰えさせることなく、みずからを主張していた。特に、勢いよく飛びあがる赤い燐光は、いまにもわたしの口の中に飛び込んできそうだった。おそるおそる、それに手をのばした。 わたしの怖気づいた様子に、ほら、ぐずぐずしとると落ちるだろ、と急かされた。生唾を飲み込んで、覚悟を決めると、飛び上がった赤い星の粒を、両手ですくい取った。いまだ!すぐ口に入れんか。と、言われ、目をつぶって、そのかがやきを、口の中に放り込んだ。  内壁に触れた瞬間、ひかりの粒は、はじけた。粉々になった欠片が、口の中で激しく動き回る。舌の上で動きを止めた。赤い星は、ほのかな温かさを保ったまま、しゅわっと一瞬にして溶けてゆく。 溶けて広がった液体は脈を打ち、米粒ほどの大きさに分裂していった。堅果のように硬くなったものもあれば、グミのようにやわらかくなったものもあり、それらが混ざりあっては、分裂をくりかえし、甘くなったり、すっぱくなったり、辛くなったりした。そして、最後に水のような無味無臭の液体となって、嚥下した喉を、すっと通って、胃の中へと降りて行った。  お腹のなかが、温かかった。胃のなかに入ってもなお、そのかがやきを主張しているように、星の液体は溶けて、わたしの肉のなかに染みわたっていった。 不思議な心地よさだった。目を閉じると、まぶたの裏側で、収縮をくりかえし広がってゆく、銀河の流れが見えるようだった。星は時だ。星は速さのもっとも近くによりそう歴史の集積だ。わたしはいま、何億光年という時間のなかにいるのだ。  思い出したように、老人の顔を見ると、ひどく穏やかな表情をしていた。やわらかく細められた瞳の奥で、何かを語りかけてきた。しかし、わたしにはその言葉が何か、知ることはできない。 それでも、星喰い同士でしかわかりあうことのできない、感覚を共有する、よろこびの中にいた。わたしは、静かにうなずいた。そして、涙があふれてきた。うまかったです、おいしかったです、そんな言葉が浮かんだが、口にすることは、できなかった。ただ、泣いてしまいたかった。星を口に入れたときから、言いつくせないなつかしさを感じていたのだ。  宇宙はどこからはじまったのか。 ビックバンが大きなエネルギーを放出した瞬間にちらばった星たちが、太陽系をつくりだし、銀河を形成する。それは数々の偶然の積み重なりと、細部にまでわたる計算の混濁だ。いま、わたしの腹のなかでかがやいている星の明るさは、いったい、いつのかがやきだったのだろう。 いま、わたしは過去を飲んだのか、未来を飲んだのか、はじまりを飲んだのか、終わりを飲んだのか、わからない。おそらく、いまここで、ぜんぶを飲んだのだ。いや、わたしが星のかがやきに飲まれてしまったのかもしれない。あまりにも途方もない時間の長さに、わたしは自分のちっぽけさを、痛感した。しかし、それは心地良い痛みだった。 いま、つながっている。自然と言おうか、なんと言えばいいのかわからないけど、その大きな何かとつながっている。不安も焦燥も、焼き尽くしてしまうほどの、かがやきの力強さは、光の海は、一つの彼岸の景色そのものだ。 わたしは、それとつながっている。だから例えば、わたしの肉体が朽ち果てるとき、わたしはその死の向こう側へと、帰ってゆくことができるのだと、思った。 身を焦がすほどの痛みの流れを泳ぎ切れば、生まれてくるときと同じだけの、宇宙が待っている。それを見聞きし、触れる媒体など持ってはいないかもしれないし、感じ、考えることもないかもしれないけど、わたしはやはり、その時のなかへ帰ることができる、そのなつかしさに安心しているのだ。 このとき、わたしは「死」は怖いものではないのだと、知った。  老人は、わたしの頭を軽く叩いてから、殻のなかで飛び回っている星の粒をひとつかみ、口のなかに放り込んだ。慣れた調子で、ぼりぼりと噛み砕き、嚥下すると、満面の笑みを浮かべていた。やっぱり、星はうめえなあ、と言って、また一つ口に入れた。  「お嬢さん、あなたも一つの死を喰ったのですよ」哲学者はそう言って、とんがった頭をかいた。「星は喰うから死ぬんじゃありません。すでに死んでいるからこそ、生物よりも力強いかがやきを失わず、この場所にまで届くのです」  「じゃあ、哲学はどんな味がするんですか?」 わたしは手にしていた月の殻をなでながら、口元を歪めて、哲学者の双眸を見つめた。緑色の瞳が、じっとわたしを見つめ、微かに、やわらかく細められた。  「絶望を超えた、苦しみの味です。そして、その先に見える滴のような一つの閃光。それが、哲学を喰うものを最後的に慰安し、慰撫する、極上の味なのです。虚無の集積。焦燥の塊。闘争の血脈。内臓がえぐりだされるような痛みのあとの、かがやきなのですよ。真理とは、それだけのことをしても、手に入れたい。それほどの味なのです」  「死と隣りあわせの、食事なんですね」  哲学者は、ははは、と高らかに笑うと、「食す」とは、すべてがそうでしょう。だからこそ、意味があるのですよ。と、言った。  あと数時間もすれば、夜も明けるが、その前にお前さんも星を釣ってみな。そうして、ケツを引っぱたかれたので、おずおずと天の川へ向かって降りはじめた。途中、何人かの星釣人にあいさつをされて、ああ、そうですか、ええ、どうも。と、なんともとりとめのつかない返事をして、のろのろと川原へと降り立った。  近くで見れば見るほど、光の渦はかがやき、はしゃぎまわり、飛び跳ね、流れてゆく。空に浮かんでいた天の川は、もう少しひっそりとしていたように思ったのだが、あれは遠い距離を経たゆえの静寂だったのだろうか。 光のなかへ割り入るようにして、片足をつっこんだ。地脈の底に触れたようだった。否、地脈の底など見たことすらない。けれど、大地の中心に蓄積された熱に、この肉体がどろどろに溶けることなく、耐え抜くことができたなら、おそらくは、そうなのだろう。陽のぬくもりをたくわえた、光の中心に、わたしはいま立っているのだ。  老人のやっていたように、空っぽの月の殻を、そっと光の流れの中に落とした。月はゆらゆらとたゆたいながら、赤や黄、白のかがやきをその身体のなかにたくわえてゆく。それは、時にはげしく、時にやわらかく、明滅をくりかえしながら、みずからを満たしていった。下弦のみかづきは、もうすでに空に浮かんでいた満月よりも、かがやいているようだった。  「おい、おい、しろめし」  老人が、川原の砂利の上に立って、わたしを手招きした。 なんですか、とそちらへ向かうと、もうすぐ月が落ちてくると言う。はあ、じゃあ、ついに釣り上げるのですね、と笑うと、そばにいた哲学者が、とんがったはげ頭をかきながら、苦い表情をしていた。 それを見た老人が、「お前は、いつも深刻なんだ」と、高笑いをした。いったい、何なのか、首を傾げていると、哲学者は冷たい瞳を細めて、低くつぶやいた。  「ぼんやりしている暇はありませんよ。このままでは、帰れなくなります。空が、白んでくる前に、お早く、この森を抜けたほうがいい。君は、もう星を喰ってしまったのですからね。道なら教えてあげます。天の川を渡りなさい。向こう岸を、まっすぐ歩いて行けば、君は帰れます」  そうして、わたしの頭の向こうに広がる、森を指さした。訳がわからず、困惑していると、老人が青い歯を見せて笑った。  「なに、そんなに気にせんでもいい。次の流星の流れる時に、帰ればいいんだ。言ったろ、一年に一度、かならずこの大収穫の時期がくるんだ。そんなに慌てて帰らんでも、俺はかまわねえぞ」と、なんでもないように肩をすくめた、その言葉の意味を考えて、わたしは震えあがる。  次の流星の年。それは一年後なんかじゃない。わたしたちの生きている時間のなかでは、この流星群が次に降ってくるのは、百年後なのだ。いま、帰らなければ、一生、現実の世界に帰れなくなるということだ。わたしは、全身の血が引いてゆくのがわかった。冷たくなった両手の指先をもみながら、ようやく事態の深刻さを把握した。哲学者は言う。  「いいですか。彼も、もともとは星喰いじゃなかったのですよ。お嬢さん。君と同じような、しろめしの一人だった。何百年前になるかは、もう定かではありませんが、彼は現世へ帰りそこなった。星をここで喰ったからです。そして、長い年月は、彼のかつての記憶など風化させてしまった。彼は、星喰いになってしまったのですからね。ここに迷い込んだら最後、必死に逃れ出るか、安住するかのどちらかなのです。さあ、お帰りなさい、愉快なお嬢さん。君との時間は、非常に有意義でした。僕たちを、楽しませてくれた。だから君を、帰してあげます。ここを無事に出ることができたなら、もう二度と会うことはないでしょう!」  どん、と肩を押されて、天の川の流れの中で、へどもどした。 足をもつれさせながら、向こう岸を目指して、歩きはじめる。途中、後ろを振り返り、老人と哲学者の姿をちらり、と見た。老人は全身から、青や黄色のかがやきの粒子を放ちながら、灰色の釣竿を肩にかついで、にやにやとしていた。  ほれ、もうすぐ月が落ちるぞ!釣り上げるまで、ぐずぐずしとるつもりか。お前も月を喰うのか。喰っちまうのか!と、大声で笑い出した。 その様はあまりにも異様で、わたしは、このときになってはじめて、ひどくおそろしい時間を生きている人たちと一緒にいたのだと、思った。さらに老人は叫んだ。  「星はいつまでもお前を追い続けるぞ。速く、速く、速く!それこそ、お前の肉を焼き、思考も、感情も粉微塵にしてしまうほど、力強く。俺たちを追い続ける。追うんだ、追うんだ、追うんだ!おおおお」彼の笑い声が遠くなってゆく。一歩、足を進めるごとに、わたしは、苦しくてたまらなくなった。老人と同じように、叫びたくなった。  老人は、すでに星喰いとなり、もう星そのものに近づきつつある。なんだか泣き出したくなった。叫んでしまいたかった。一緒に過ごした時間の集積が、未だ、原石のかがやきのように、この胸のなかに残っている。わたしは、彼らに美しい夢を見ていた。そして、共にあった。 星を食べたときのなつかしさと、かなしみを、わたしと老人だけは、知っている。知っているのだ。  わたしは泣いた。現実に帰ることにか、もうここには来られないことにか、不安からか、星を喰ったせいなのか、なんだかまったく訳もわからず、とにかく泣きながら、泣きながら、一心不乱に、足を動かし続けた。  木々のあいだを抜けながら、白んできた空を見上げた。三日月はじょじょに傾きを増して、天の川の方角に向って降りて行った。その白い、ごつごつとした表面が、彼らの頭上にかかるころ、わたしは全速力で、目の前の丘を駆け下りて行った。体が燃えるように熱かった。 全身から、淡い光の粒が、湯気のようにたちのぼった。わたしは、いま星だ。燃えてゆく。闇の中を、はしゃぎ回って飛散してゆく。一つの、かがやきだ。 朝の大気と混ざりあうように。一瞬のかがやきは、青や赤や黄に明滅しながら、はじけて消えてゆく。そうして、そのかがやきの渦を抜けた先で、見なれた舗装道路が見えたのだった。  肩で息をしながら、汗をぬぐって顔を上げると、山を上がっている秀雄の背中が見えた。辺りは静まりかえっていた。空はまだ暗く、夜は明けていない。オレンジの外灯の明かりが、ぽつぽつと道路の上に落ちていた。 もう朝になるんだとばかり思っていたため、平穏な夜街の景色を見下ろしながら、拍子抜けした。壊れていると思っていた携帯電話を開くと、一時一分という数字を表示していた。たぬきかきつねにでも、化かされていたのではないかと思い、わたしは、大きな声で笑い出した。  「なに、どうしたんだ?」わたしが、ついて歩いていないことにようやく気がついた秀雄は振り返って、目を丸くしてぽかん、と口を開けていた。それもそうだ。静寂をやぶるその笑い声は、夜の空気を鳴動させたのだから。  空を見上げると、オレンジジュースのような、みかづきが浮かんでいた。なんだ、釣り損なったんじゃないか。ふふふ、と、わたしはほのかに温かい、腹をさすりながら、なんでもない、と微笑んだ。  彼は、わたしのとなりに並ぶと、なんでもうそんなに汗をかいているんだ、と苦笑した。わたしは、肩をすくめて踵を返すと、秀雄の制止も無視して山を下りはじめた。  しぶしぶ後を追いかけてきた彼に、星を見るんじゃなかったのか、一生に一度のことだと言ったじゃないか。と、文句を言われたが、「星ならもう食ったよ」と、青い歯を見せて笑った。彼は大きく目を見開いて、しばし黙った。                   了
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