静寂の歌(逢魔伝番外編)

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    十一  目覚めてすぐ苦笑を浮かべた。目の前に見なれた仏頂面があったからだ。黒い両耳をぴくぴくとさせながら、鬚をひくつかせて「笑っている場合じゃないぞ」と、低くつぶやかれた。しばらく頭をかいていたが、ため息をついて起き上がった。  「何かあったのか」  「ニュースを見ろ」そうして首を振った先で、邪植と錦までもが、テレビにかじりついていた。黒い長髪と、金と赤のうろこが邪魔で見えない。僕は枕もとに投げっぱなしにしていたリモコンを見つけると、音量を上げた。それに驚いた二匹が振り返って、目を見開いた。錦はすぐに縁側の下まで降りたが、邪植はにい、と笑って「やばいですよ」と愉快そうに言った。布団から起き上がって、座卓の前にしゃがみこんだ。目の前で流れている映像を眺めながら、頭をぼりぼりとかいた。  「火事か」  家々の屋根のうえで、赤い帯のように広がっている。ホースから飛ぶ水が炎と煙を狙うが、一向消える気配がない。中継の様子から、上野の横丁だとわかる。商店からこんな大きな火が出るのも、珍しいことじゃないのかもしれないが、場所が妙だ。自然発火で、これほど人どおりの多いところに、偶然いくつも火の手が上がるものだろうか。ふん、と鼻を鳴らして顎をさすると、邪植が両眼を細めて笑う。  「どうやら、不審火のようで」  「不審火以外のなにものでもないだろう。放火だな」  「それだけじゃないです」 邪植がチャンネルを変えると、今度は駅前近くで武装している警察官が、装甲板の裏側で何か叫んでいた。見ると、渋谷の中央スクランブルで、銃を持った男が怒鳴っている。上司がどうの、友達がどうのと、訳のわからないことで怒っている。異様な緊迫感のなかで、女性キャスターが中継していた。  「こりゃ東城二号だな」  「本人曰く、十丁は持っているようですよ」  「面倒なやつだ。警察も撃ってしまえばいいのに」  「それ、木下さんにも言えますか」  「言うね」  あくびをもらしながら、煙草盆を引き寄せる。一本取り出して口にくわえると、マッチをこすった。八枯れは、僕の足元をするりと抜けて、座卓の下で丸くなった。ぷかり、ぷかり、と煙を吐き出しながら邪植の横顔をちら、と見て微笑を浮かべた。  「お前、ちょっと行っておいで」  「どこへですか」  「あそこへ」  「何をしに」  「そりゃ種を植えるんだ。決まってる」  「喰って良いんですか?最悪死にますよ」  「まあ、いいよ。不審死で片づく」  邪植は怪訝そうな表情を浮かべながらも、黒い両翼を広げて、鴉の姿に戻る。一度、風を巻き上げて旋回すると、縁側を飛び越し、石塀の向こうへ一度落ちると、空高く上昇して行った。その軌跡を追うように、黒い羽根が一枚ふわり、と落ちる。それを指先でつまみながら、苦笑を浮かべた。  「どうにも気になるな」  「何がだ」  「人類にあまねくふりかかる災厄、と言うものかな」  「意味がわからん」  一度黙りこんで煙を吐き出すと、さあ僕らも行こうか、と言って立ち上がった。「考えがあるのか」座卓の下で、黒い尻尾を億劫そうにゆらしながら、低くつぶやいた。紫煙の立ち上る天井を見上げながら、錦には家に残るよう指示を出す。  「お前気づいていたか?」  「何の話しじゃ」  「あれだよ」  「どれだ」  「天井を見ろ」  怪訝そうに顔を出した八枯れに、顎をしゃくって見せた。天井には、黒い大きな塊が貼りついている。それは、じっと眼を凝らして見ないと、人の影とわからないほど、禍々しくねじ曲った形をしている。  「山下とも子の時と同じ、人の思念体だよ」  「誰のじゃ」  「はがして見りゃわかる」  「それはわしに注文しとるのか」  「まあ、そうだ」  「怠惰なやつめ」そう言いながらも、伸びをして大きく飛び上がると、天井に貼りついた。蠢き、逃れようとした影の頭を噛んで、ずるり、と引きはがすと、畳の上に着地した。さっさとやってくれ、と言わんばかりに睨まれる。まあ、待て待てと懐から塩を取り出すと、影の上にふりかけた。一度、ぐにゃぐにゃとしおれるように伸びあがったかと思ったが、途端、足元に崩れ落ちた。黒い砂の塊となった影の前でしゃがみこむと、それにそっと触れる。視界がゆれて、酩酊した。誰か、何者か知れない記憶が、黒い渦となって僕の眼前に映し出された。
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