静寂の歌(逢魔伝番外編)

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    十四  「ねえ知ってますか。先生」  つぐもは、ナイフをポケットから取り出すと、ぱちんぱちん、と閉じたり開いたりしながら、縁側に腰かけた。片足を乗り上げて振り返ると、首を捻じ曲げて笑い声を上げた。  「この国での自殺者数は、年間3万人を越している。世界で第6位の好記録なんですよ」  「そのようだね。自殺に誇りを持った国のようだ、どうも」  「なかでも、青少年の自殺者総数は4049人、高校、大学生が主で、合わせて744人、もっとも多いのは無職者で1594人なんです」  「若い美空に嘆かわしいことだね。彼らは酒と煙草のうまさを知らない」  「じゃあ、青少年の犯罪被害者数は?28万人近くいて、虐待被害者数は、4万639人なんですよ。国内自殺者総数より多いんです。つまり、ぼくのような子供が4万人近くいるってことになる」  彼は肩をすくめて笑い声を上げると、両手を叩いた。  「でも、青少年犯罪者の数は9万人弱ですよ。おそらく、虐待被害者が、そのまま少年犯罪をやるケースが、半分を占めているんじゃないかなって、思うんですけど、先生はどう?」  「そんなの知ったことじゃないな」  「また逃げるんですか」  「逃げたんじゃない。相手にしていないんだ」  座卓の上で頬づえをつくと、部屋の隅に置いてある木棚を、ちらと見る。あそこに縛りの札から、何からつっこんでいたような気もするが、どうしたものか。ともかく塩の袋を破いて、手のひらの中に隠した。  「でもさ、被害者は加害者になり、加害者がまた被害者をつくりだすっていう生産の流れは、物をつくりだすときと同じように、機能していると思いますよ。だって壊すほうが簡単じゃないですか」  「そうかね。僕は作ったり、喰ったり、寝たりしていたいよ」  「それは先生がぐうたらなだけでしょう」  「よりぐうたらな奴がそばにいるので、気にならないね」  のらくらとつぶやく僕の言葉に、少々いらいらした調子で、話しを続ける。 「ぼくだって、本当は特別な訳じゃない。だって、虐待された子供は4万人もいて、犯罪者なんか9万人もいるんですよ?それなのに、ぼく個人に焦点をあてると、まるで特別なようになる。なぜですか?」  「それが個人性と言うことだろう」  「真面目に答えてください」  「短気だね」  「そうやってのらくらされちゃ、苛立ちもします」  そんなら少しまじめに言おうか。と、煙草の灰を灰皿の上に落とした。  「君は解剖学者の父を持ち、それの実験台にされた。その父親を殺し、解剖して観察し、最後にはその肉を食べた。一つ一つのことはそう大したことじゃないかもしれないが、すべてが合わさってしまうと、どうもにぎやかになる。にぎやかになると、現実感が失せってしまい、君は特異性をまとう。その特異性も数字のなかに没入してしまえば平均化される。だから君は自らを特別じゃない、となぐさめている。しかし、これらすべての事柄は、君自身の主観性がとりそろえた材料でつくりあげた事実に過ぎない。個人の勝手な解釈いわば、妄想と言うものだ。よって、君の理論に客観性がない以上、異常も正常も定義すら成り立たない」  「いつ調べたんですか、そんなこと」つぐもの声が低くなる。  「いや、調べたと言うこともないよ」  手にぬりこんだ塩を畳の上にこすりつけ、残っていた顆粒をつぐもの足元に向かって投げつける。縁側に上がろうとしていた黒い塊が、徐々に後退し、池の縁石のほうまで転がり落ちる。八枯れは背を丸めて、いまにも飛びかかりそうだった。  「君の憎しみの深さはどうしようもない。そこの足元でぬらぬらしている蛇のように、しつこそうだ」  「何ですか、それ。幽霊?」  「幽霊と言うならそうだが、君自身だよ」  つぐもはお面の奥で、くぐもった笑い声を上げた。「おかしなことばかり言うんですね。ぼくはまだ人ですよ」  「どうかな」苦笑を浮かべて、後ろの戸棚に向かって、じりじりと足を引きずって行く。「君はもうとっくに、境界を越えてしまっている。戻って来れるはずがないね」  「ひどいな」つぐもは、ぐっと縁側の上で立ち上がると、逆光に照らされた赤く染まった髪の毛をゆらしながら、座敷へと入ってきた。「結局、先生だってぼくのことが嫌いなんだ」  「そんなことはない」  「じゃあ逃げるな!」  つぐもが怒りで叫んだ瞬間、渦巻いていた黒い塊が大きな口を開けて、飛びかかって来た。僕の前に飛び出した八枯れが、かじりつく。長い牙を、塊の中心につきたてて、庭先へと転がり落ちた。 つぐもがそれに気を取られていた隙に、戸棚を開けて縛りの札をつかんだが、後ろ髪をつかまれ、引き倒された。折れた右腕を踏みつけられる。激痛に眉根をよせると、つぐもは僕の額をつかみ、畳の上に押さえつけた。何度か後頭部をぶつけて、首元にナイフの刃をつきつけられた。  「なに逃げようとしてんだよ、あんた」  「極めて心外だな。はじめから相手になどしていない」  「ふざけやがって」  「本気だよ。君など眼中にない」 僕はゆれる脳をどうにか抑え、にい、と口元を持ち上げた。握った拳の中には札がある。しかし、馬乗りになられて腕を押えられているので動かせない。さて、どうしたものか。  「この腕、どうしたんだ?」  つぐもは、膝でぐりぐりと右腕を押えこんでくる。添え木を折って、つながりかけていた関節のあいだに、膝をつっこんできた。僕はあまりの痛みに、叫び声をあげる。  「痛いのかよ、先生?神経でも切ってあげようか。そしたら、痛みなんか感じなくなる。ぼくの脳もね、ほとんど切れてるんだ。そしたらさ、もう泣くのも怖くなくなる。だって、痛みなんか感じないんだから」  「お、断りだね」よだれを垂らしながら、ぐっと睨みつける。「いいか、かけがえのないものなどこの世界にはないかもしれない。だが、それが生きることを大切にできない言い訳にはならないんだよ」  「綺麗ごとを」  「綺麗ごとで何が悪い。理想も叫べないで、駄々をこねるくらいなら偽善者やってたほうがよっぽどマシだね。独りよがりのお前は本当に一人だが、僕には片手におさまるくらいは、守らなきゃならないものがあるんだよ」  口の中に溜まっていた血を、つぐもの面に向かって吐きつけた。それがじょじょに顎をつたって滴り落ちる。つぐもは低くうめきながら、首元につきつけていたナイフに力を込めた。薄皮がいったな、と思った瞬間、八枯れが縁側から駆けだしてきた。  黒い塊をすっかり喰い終わったのか、嬉々としてつぐもに向かって飛びかかって行った。爪で引っかかれ、後ろ髪の上から噛みつかれ、ぎゃあ、と叫び声を上げて後退した。よろめきながら、八枯れの体を引きはがすと、横たわっていた僕の体に向かって、投げつけてきた。八枯れは、素早く身を回転させて着地すると、眉をひそめてこちらを見た。  「なにを遊んどるんじゃ。赤也」
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