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62.やばいくらい
青天の霹靂ってこういうことを言うのだろう。
手渡された紙切れを見下ろし、秋野は絶句していた。
「ようするに、栄転だ」
部長の長嶋は陽光降り注ぐ大きな窓を背にして座り、机の上で指を組む。
「ニューヨーク本社は日本より設備も技術も格段に違う。君の実力なら、あちらでも十分やっていけるだろうし、なにより、向こうの室長のジョーンズ氏が君の実績を見て、えらく感銘を受けてね。ぜひに、と言っているそうだ」
「しかし……私には家族がありますし」
やっとのことでそう言うと、長嶋は椅子をきしませて立ち上がる。
「家族と言っても、もう大学生の息子さんだろう。それほど心配することもないのではないかな。なによりこれは相談と言うよりは辞令だ。断る権利はもとより君にはないよ」
「……あの……どれくらいの期間ですか……」
恐る恐る問うと、長嶋はさて、と呟いた。
「短くて三年か、長くて十年か。新薬開発プロジェクトの立ち上げメンバーとして呼ばれてるわけだからな、それ次第じゃないか」
めまいがした。それは状況によっては何十年に及ぶ可能性だってある。
愕然としている秋野の顏に、長嶋は渋い顔をして言った。
「君ももっと上を目指すべきだ。誇りたまえ。君はこの研究室の誉れだよ」
「もったいない話ですけど……」
ですけど、と口を濁す秋野に、長嶋は軽く咳払いして話を切り上げにかかった。
「とにかく、二か月後にはニューヨークに行ってもらう。準備をしておくように」
さあ、話は終わったと言いたげに、長嶋は会議室を出ていく。
長嶋はこの一方通行の話し方ゆえに、東京支社の数多の社員に厄介だと思われているが、長嶋はそれを知ってか知らずか相変わらずだ。音高く閉じられた会議室のドアを見送り、秋野は窓にもたれかかる。
実力が認められたことは喜ばしいことだと思う。薬の研究とは、膨大な実験とデータ照合の繰り返しだ。やってもやっても先の見えない仕事のようで、それでいて少しずつ結果が見えればそのときの達成感はなにものにも代えがたい。そんなこの仕事を秋野は好きだ。東京支社だって、そこそこの実績は出しているが、やはり本家本元のニューヨーク本社の実績に比べれば少しも追いつかない。あちらは日本よりも新薬に対して法律の規制が緩いし、保守的な日本の国柄が実績に及ぼす影響は多々あるだろうけれど、それ以上にそれだけでは言い訳できないくらいの技術の差がある。自分の力をそこで試せるのは確かに魅力的だ。
それでも。
ふるふる、と振動が上着のポケットから届く。スマホが震えている。
そっと引っ張り出して開くと、やはり一也だった。
今日は帰れる? 夕飯、湯豆腐にしようと思う。
秋野はそっと画面に浮かんだ文字をなぞる。
一也はどう言うだろう。
彼は今、大学一年だ。まだ残り三年あるし、なにより機械工学は彼にとって大いに興味深いものらしくて、家でも真剣にレポートやら工作やらをしている。多分、二年、三年と進んでいけばもっとおもしろくなっていくはずだ。
一緒に来て、なんて、言えるタイミングではない。多分言ったら、一也はついてくるだろうなと想像がつく。でも、それは彼の将来を思えばしてはいけないことだ。
ねえ、一也。
そっと窓に頭を預けて、秋野は目を閉じる。
自分と君の関係が家族なのか恋人なのか、わからなくて戸惑ってもいたけれど。
なんだか今、ようやくわかった気がする。
多分、どっちでもないんだ。家族でも恋人でもなく。
ただただ……大切な人だったんだ。
やばいくらい好き。
初めてそう言ってくれた一也の声を思い出しながら、秋野はため息をつく。
多分、今、自分の中にあるのは一也と同じ気持ちだ。
彼の将来を摘み取っても一緒に行きたいと思ってしまっているのだから。
秋野はそっとスマホを持ち上げる。
「湯豆腐か」
きっとおいしいだろうな、そう思って、秋野はそっと微笑む。
一也。
秋野はそっと指を滑らせる。
やばいくらい好きだ、そう返事を打ってみた。
スマホを閉じて、秋野は空を仰いだ。青くて綺麗な空。その空に指をかざす。
きっと大丈夫、そう言い聞かせて。
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