タンカーの下から

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 私の自慢の手を差し出すと、男は黙ったまま手をとった。空気を含んだウインドブレーカーとそれを羽織った男の肉体は、頭上に浮いていて、波にゆすられながら少しずつ離れていこうとしていた。 「どこに行きたいですか? 私は魂を、行きたい先に案内する役目を負っています。なんなりとどうぞ」 「あんたは死ぬ前に見る幻覚ってやつだろ。俺を気持ちいいところに連れて行ってよ」 「そのパターンもまあまあありがちですね」  男の指が、なぜか私の指の股に絡んでこようとするのでそれを振りほどきながらこたえる。海老みたいに尾びれを丸めて二人の間に入れる。近寄られたくないからだ。 「死ぬ前ではなく、死にきっているんです。それに私は案内をするだけの役です。断っておきますが、天国とか地獄とかそういう分かりやすい場所はありません。無数に別れた『あの世』があります。どこに行きたいか、よく考えて具体的に言ってくださいね」 「もう死んでんならなんでもいいよ」  そう言って胸にのばされる男の手を、強靭な尾びれで思い切り叩いてやった。痛みは無いはずだが、打たれた勢いで男はずっと後ろに飛ばされた。 「私が案内しなければ自力で行き先を探さないといけないんですよ。良いですか? 私と行きあったのが幸運なんですよ。私の案内を逃したら、行き先を探してずっとさまようことになりますからね。沢山の迷子たちに会うことになりますよ」  あえて脅す口調で言うと、男はゆっくりと近寄って、腕一本ぶん離れた距離で止まった。 「…………家に帰りたい」  絞り出された言葉は聞き飽きたもので、それとは別に、聞きたくない言葉でもあった。事故的に死んだ人間の「家に帰りたい」は私に残った人の頃の記憶に無遠慮に触れてくる。 「家ですね。『あの世』の家ですから、先に来ている人が居るかも分かりませんし、これから来る人があるとも限りませんが、いいですか。あなたの家にご案内するので良いですね」  家につれていくとなると、私は妙におせっかいになってしまう。本当に家で良いのか。行った先で後悔しないのか。そこまであなたの家に、良い事が待っているのか。保障が出来ないことをことさら確認したくなってしまう。  そんなに帰りたい家があるのに、こんな事故で死なないで欲しい、と思いかけたところで尾びれに痛みが走った。 「うん。いい。俺の家ならなんでもいいよ」  家に帰れる、という事実に安堵したのか、男は大人しくなった。 「じゃあ、着いてきてくださいね」  痛みを堪えて尾びれを動かす私の動きは鈍い。一方、男の魂はすっかり魂として納得しきったようで、気持ちよさそうに水の中を飛んで着いてくる。  たどり着いた男の家には明かりがついていて、先に誰かが居るようだった。男が帰りたがった家に、男が求めたであろう明かりがあることに安心した私の尾びれから、痛みがひいていく。人の変わったように礼儀正しく頭を下げる男を後にして、私は急いでタンカーの下に戻った。  いつタンカーから、人がおちてくるとも分からない。  その人が、家に帰りたくて帰りたくて、迷子になるとも分からない。
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