タンカーの下から

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 落下した人体が岩礁にあたる音は独特で大きい。だから水の中にいても聞こえる。それから肉の器が勢いのままに沈むのが見える。それは多分肉には重力というものがまとわりついているからなのだろう。重力に慣らされた魂は、肉にしがみついて夢とも現とも分からないという顔をしている。  そこに向かう私はイルカの気持ちでいる。下半身にひれをつけて、水の中を飛んでいく。尾びれはついているが背びれと胸びれはついていない。イルカにおいて、胸びれは推進力と方向のコントロールやブレーキの役割、背びれは左右のバランスの調整の役割を担っている。らしい。それがなくても問題なく進めるのは、ほんとうに水中を泳いでいるわけではないからだ。物理法則と切り離された世界にいるのが私だ。  実際のイルカの形をとってもいいのだが、というかとっていた頃もあったのだが、人魚の形をとっていたほうが、魂を相手にしたときに話がはやい。肉体の器から抜け出て新しい世界を見ているのだ、と納得してもらえる。そういうわけで、伝説の生き物である人魚になっている。 「いらっしゃい。これから先にその肉は持っていけません。私の手をとって」  そう差し出す手が乙女のしなやかな手であるときに、多くの魂は全て了解したという顔をする。これが胸びれではそうはいかない。まったく勝手なもので、胸びれに手をとられてあの世に行こうという気持ちにはならないらしい。  了解した魂が私の白魚のような手に触れて、肉から離れる。 「これからどこに行くんでしょうか」 「どこに行くか決めるのはあなたです」  不安げな魂にそう告げると、魂はアメーバーみたいに形を変えて、波間に広がったり急に縮こまったりする。そのくせ私の美しい手にはしっかりとつかまったままでいた。 「あなたの行きたい場所に案内するのが私の役割です。どこに行きたくてあなたは飛び込んだんですか」 「どこにと行っても、死んだ先のことなんて細かく考えませんよ。それに行き先は多くても三つくらいかと思ってました。地獄と天国と、どっちでもないみたいな。僕は比較的いい人間でしたけど、最後が自殺だから、地獄か、行けてもどっちでもない世界じゃないですか」 「なるほど、あるあるですね。でもそうじゃない。これから行く先はそれぞれ離れていて、道は複雑で、でもあなたが行きたいと願ったはずの場所がきっとあるから、そこに行っていただくお手伝いをしたいんです」
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