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全部盗ってやった。
あいつのところにもうなにも残らないように。
泥棒だって訴えられることも、大悪党だと後ろ指を差されることもない。
あいつはなにも気付かないんだから。
『忘れたい記憶、忘れさせたい記憶、全て消し去ってみせます』
怪しい、と思った。
こんなもの、ろくでもないだろう。
けれど、どうしても、欲しくなった。忘れさせたいから。あいつの中から、記憶を消し去ってしまいたいと思っていたから。
このタイミングでこんなアプリの広告が入ってくるなんて、ある意味運命だと思った。
一瞬、迷った。だから、自分の状況を考えてみた。
すぐに入れた。
忘れさせたい相手と記憶を入力して、画面を見せればいいらしい。
それだけで、記憶が、想い出が、全て消えてしまう。
相手の、わたしへの感情もきっと無くなるのだろう。なんて恐ろしいアプリなのだろう。この世の中では、こんなものさえ作れてしまうのか、と怖くなる。
それでも、仕方ない。わたしはこのアプリを使うしかない。
あいつに連絡を入れる。今すぐ、この場所へ来い、と。
使うならすぐの方がいい。このことについて、よく考えてしまうと、この気持ちがあやふやになってしまう。
だから、すぐに使う。
男は十分も経たないうちにやって来た。
真っ白な箱の中のわたしを確認して、目を丸くさせる。
「な、んで。」
「そういうのいいから、これ、見て。」
男の視線が、わたしから、わたしの携帯へ移る。
数秒の間、男が硬直する。
そして、男は瞬きをした。
「・・・・・・ここ、どこ?・・・・・・病院?」
身体の芯が燃えたように熱くなる。
取り返しのつかないことをした後、人間はここまで体温を上げることができるのか、と考えるわたしもいた。
男はわたしの存在に気が付いて、首を傾げた。
男にわたしの動揺がバレないように、わたしは声を丸くして、言う。
「部屋、間違われたんですか?ここにいるのは、わたしだけですよ。」
「えっと、あ、けど、僕の知り合いは誰も入院してなくて・・・・・・。」
「・・・・・・そうなんですね。混乱してるところ申し訳ないんですけど、わたし、お昼寝の時間なので・・・・・・。」
「あ、そうなんですね。失礼しました。」
男はそのままペコリと頭を下げて部屋を出て行く。
わたしのことは、完全に忘れさせることができた。
わたしは、あいつから、わたしを盗んだ。
とても悲しくて虚しい泥棒をした。衝動的だったとも言える。誰かに止めてほしかったけれど、わたしにその誰かはいない。強いて言うなら、その誰かは、あいつだけだった。
一人になった。鼻を刺すような匂いが充満している箱の中で、わたしは一人になった。
もう、一人だ。もう、他には誰もいない。
そのことに、安心したのか、怖くなったのか、身体が思うように動かなくなる。
次第に息がうまくできなくなって、必死の思いでナースコールを鳴らす。
意識が途切れ
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