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お父さんとお母さんを送り出して、一人きりの静かな室内で、葉奈はとりあえずテレビをつけることにした。
画面の左上に表示されている時刻は、八時十分。いつもだったら、学校へ向けて出発している時間だ。
八時三十分。ぼうっとしながらテレビを眺める。小さな子どもが見るような教育番組をなんとなく流す。
今頃きっと、学校では朝の回が始まっている頃だろう。
葉奈のクラスは欠席者がいると、「なんとかさんは今日、風邪のためお休みです」とか「おうちの事情でお休みです」とか、簡単な理由が発表されるのだが、葉奈はこのシステムがあまり好きではない。でも、今頃きっと、葉奈が欠席であるということも発表されているのだろう。
藤井先生は、その理由を、どういうだろう?
もし――もしも、「春原さんは、雨なのでお休みです」とか言われていたりしたら、どうしよう?
それまで呑気にテレビを見ていた葉奈の顔が、サッと青くなる。
そんなこと言われたりしたらきっと――「なにそれ、ずるい」とか、「てかなに、お姫様気どり?」とか、「前から思ってたんだけど、あの子、怪我したからってチョーシ乗ってるよね」とか言われてしまうかもしれない。いや、きっとそうだ。そうに決まってる。
一度そう考え出してからはもう、気が気ではなかった。
ぐるぐると、嫌な考えばかりが頭につきまとって、離れない。
目を回す勢いの葉奈を呼び戻したのは、テレビの中の犬(?)のキャラクターだった。「さあっ! 次はみんなで元気いっぱい、ジャンプをしてみようっ!」なんて元気に声を上げている。
ハッとして顔を上げると、画面の中では小さな子どもたちが無邪気に飛び跳ねていた。
葉奈はそれからしばらく、子どもむけの教育番組をだらだらと見て過ごした。でも、一時間近くそうしていると、段々退屈になってきて、退屈になると学校のことを考えてしまって、どうにも落ち着かない。
立ち上がって、ベランダの窓をカラカラと音をたてて開ける。雨はもうすっかり上がって、雲の隙間からちらほらと陽が差し込んでいる。
……ちょっと、散歩にでも行こうかな。ほら、リハビリも兼ねて。
葉奈は、言い訳をするようにもごもごとそう呟いて部屋に戻り、窓の鍵を閉め直した。
低学年の頃にお母さんが作ってくれた、フェルト地の手提げかばんを掴んで、そこで一度動きを止める。中にいれるものがなにもない、というのが、なんだかいかにも、自分は暇人というかんじがして、それが嫌で、やっぱり言い訳をするように算数のドリルと筆箱を放り込んだ。
右足にスニーカーを、骨折した方の左足にギプス用の靴を履いて、松葉杖をひょこひょこ動かしながら、外へ出る。
この数日でだいぶ慣れたが、正直、松葉杖で外に出るというのは、とんでもないほどしんどい。肩も腕も手も、そしてもちろん怪我をした足も、とにかく全身が痛むし、一歩歩くだけでいつもの倍以上の体力を消耗する。
「……でも今日は、朱莉と真央がいないだけまし」
マンションのエレベーターを降りた所で、湿った六月の空気を思い切り吸い込んだ。
なんだか、ずいぶん久しぶりに呼吸をした気がした。
学校は、葉奈の住むマンションから、歩いて十分くらいの距離にある。その間に、とても大きなシラベ川と、その上にかかる真っ赤なシラベ橋と、コンビニが一つと、郵便局と、それから図書館がある。
図書館。
葉奈は、頭の中で、昨日見た図書館のポスターを思い浮かべた。
『雨の日は、お部屋でゆっくり読書をたのしみませんか?
おもしろい本 取り揃えています。』
確か、そんなことが書いてあった。
ひょこひょこと、葉奈はゆっくり歩き出す。
べつに、本が好きというわけではないし――ていうかむしろ、葉奈は小説なんて国語の教科書に載っている作品くらいしかまともに読んだことがないけれど、それでも、図書館へ向かうことにした。目的地が決まると、どうしてだか少しホッとした。
しばらく行くと、ようやく図書館の外観が見えてきた。
いかにも年季の入った朱色をした、煉瓦造の三階建ての建物。ツツジの花が咲く花壇が壁沿いにいくつも並んでいる。昨日葉奈が見つけた変な絵の描かれたポスターは、雨に濡れたガラスケースの掲示板の中に今日も今日とて貼られていて、今日も今日とて下手だった。
自動ドアの前に立つと、ごうごうと鈍い音をたててゆっくり開いた。
館内は、しん、と静まり返っている。葉奈が一歩歩くと、かしゃん、と松葉杖の音が響いて、入り口を入ってすぐの場所にある、カウンターに立っていたお姉さんが、ふと顔を上げた。
しまった!
葉奈はなんだか恥ずかしくて、図書館へ来て早々なのに、もう逃げ出してしまいたくなった。こんなに静かな場所に、自分はとても不釣り合いに見えたし、一歩歩く度に音が鳴って、いたたまれない。
そうこう考えていると、カウンターのお姉さんが、横で仕事をしていたおじさんにひそひそと何かを言った後、立ち上がってこちらへ寄ってくる。
え、なに、どうしてこっちへ来るの? うるさいって注意される? ていうかそもそも、小学生がこんな時間に一人で図書館へ来て、学校は? って訊かれたら? 警察に通報される?
「こんにちは」
お姉さんは葉奈の前までくると、にっこり笑って胸の名札を少し持ち上げて、「あまもり図書館の渚です」と自己紹介をした。
「こ、んにちは」
「よかったら、車椅子をお出ししましょうか?」
「へ」
「松葉杖じゃ、館内を見て回るのに、辛いでしょう」
予想もしなかった言葉を投げかけられて、葉奈は思わずぴしりと動きを止める。そんな葉奈を、目の前のお姉さんは優しく見ている。
「あ、いえ、だいじょぶ、です。はは」
ややあって葉奈は、ようやくそんなぎくしゃくした返事を返した。
「そう? 何かお手伝いできることがあったら、言ってくださいね。あ、児童コーナーはこの階の奥で、ヤングアダルトコーナーは二階です。自習をするための机や椅子も、二階の方がたくさんありますからね」
「は、はあ」
「それじゃ、失礼しました」
女の人は言うだけ言うと、カウンターへ戻っていく。
しばらく呆然と立ち尽くす葉奈だったが、新聞を持ったおじさんがそんな葉奈をいかにも邪魔くさそうに見ながら横を通り過ぎたのに気づき、慌てて歩き出した。相変わらずかしゃんかしゃんと音は鳴ったが、さっきみたいに居心地の悪さを感じることはなかった。
一階の奥まで進むと、お姉さんの言う通り、絵本や児童書などのコーナーが広がっていた。大人のための本棚とは違って、児童コーナーの棚はずいぶんと低い。いちばん大きなも
のでも、葉奈の胸の位置くらいまでしかないほどだ。それから、本棚と本棚の間には、葉奈
が座るには小さすぎるくらいのテーブルや椅子が並んでいる。
更に奥まで進むと、「おはなしのへや」と書かれたガラス張りの小さな部屋が現れた。そうっと中を覗くと、小さな女の子と、そのお母さんが絵本を読んでいる。
「あーがりめ さーがりめ ぐるりと回ってきつねの目~ ぷんぷん!」
おはなしの部屋の中は、壁沿い一面に葉奈の膝くらいまでしか高さのない本棚と絵本が並んでおり、職員さんが作ったのであろう、画用紙で作った様々な装飾品が飾られていた。「おてがみたくさん ありがとう♪」と一文字ずつ紙を使って書かれた文字列の下には、子どもたちが図書館にあてて書いたのであろう、思い思いのイラストや手紙が貼られている。
葉奈はおはなしの部屋から離れて、しばらく児童コーナーを見て回った。
絵本を読むような年齢でもないし、でも、児童書って、なにを読めばいいのかよくわからない。
ひらがながたくさん使われた、「なんとかくんのぼうけん」みたいなやつは、葉奈が読むにはちょっと幼すぎるし、かといって、「ドキドキ★恋の大作戦!」みたいな、いかにも真央あたりが好きそうな、イケメンの男の子と目の大きな女の子が描かれた少女漫画チックな小説にも、興味が湧かない。
ひとまず、どこかに腰かけようか迷って、そこでふと、先ほどお姉さんに言われたことを思い出す。
そうだ、二階の方が、机も椅子もたくさんあるって、言ってたな。
松葉杖を持ち直して、館内をきょろりと見て回る。
そこで葉奈は、ようやく気付いた。
今、この図書館で、自分のような小学生くらいの子どもは一人だっていない。いるのは新聞紙を持ったおじさんか、料理本コーナーを熱心に眺めるおばさんばかりだ。
途端に図書館に入ってきたばかりの時の居心地の悪さが蘇り、逃げるようにエスカレーターに乗って二階へ向かう。
二階は一階よりも更に人が少なく、しんと静まり返っていた。
「視聴覚資料とYAのコーナー」と、鈍い青色の看板がぶら下がっている。エレベーターを上がってすぐ左がカウンター、右側が視聴覚資料のコーナーで、正面に歩いていくと、YAのコーナーとやらが現れた。
そこには確かに、机や椅子がたくさんあった。壁に埋められた本たちは、下の階の児童書コーナーほど幼くはないけれど、大人が読むようなものほど難しそうでもない。
ここがYAコーナー?
そもそも、YAってなに?
そんな風に浮かんだ疑問は、すぐに解消された。
『YAとは、ヤングアダルトの略称です。
子ども向けの本じゃちょっと物足りない。でも、大人向けの本を読むのは、まだちょっとむつかしい気がする。
そんな、子どもとも大人ともいえない、成長真っ盛りな十代の皆さんにおすすめの本を集めました。
この閲覧席は本を読むための席ですが、お勉強に使っていただいても大丈夫です。
ただ、混んでいるときは譲り合って使ってくださいね。
あまもり図書館 児童サービス担当』
「あ」
そこに書いてあったカエルのイラストに、葉奈は見覚えがあった。
そうだ、入り口に張り出されていたポスター。
あの絵と、まったく同じだ。
「ふふ」
思わず、ちょっと笑ってしまう。誰が描いたのだろう。もしかして、さっきのお姉さんかな。だとしたら、ちょっと意外かも。
ふと、ポスターに小さなゴミ――よく見ると、青くて丸いシールのようなものがくっついていることに気が付いて、葉奈は手を伸ばした。
そして、そのシールをはがそうとしたとき、
「なにをしているのっ」
と。
いかにも怒ってます、というような声が聞こえてきて、葉奈は驚いてバランスを崩した。かしゃんっ、と音をたてて松葉杖が床に落ちる。なんとか尻もちをつくことは免れたが、変な風に体重をかけたせいで怪我をした左足がわずかに痛んだ。
「い、たた」
「そのポスターを、あなた、盗もうとしてたでしょ!」
「は!?」
驚いて顔を上げる。
顔を上げて、更に驚く。
そこには、童話の中に登場するお姫様のような女の子が立っていた。本当に、本棚の本の中から飛び出してきたんじゃないかと思ってしまうくらいに。
きらきら光る金色の髪に、宝石のような青色の瞳。
まっしろな肌と、林檎みたいにあかい唇。
「や、ちが、ゴミがついてたから、」
「十時半から、一階おはなしの部屋で、おはなし会をやりま~す。……あら?」
慌てて訳を話そうとする葉奈の言葉を裂くように、のんびりした声が聞こえてきた。振り向くと、先ほどカウンターにいたお姉さんが、葉奈と、葉奈を睨みつける女の子を見ていた。
「ジョゼちゃん、そろそろ時間だよ。あ、よかったら、あなたもどう?」
「え」
あなた、とは、葉奈のことのようだ。
「おはなし会。今日はあかちゃんおはなし会だから、歌や手遊びももりだくさん。楽しいよ~」
「めいちゃん、こいつ、ポスターを盗もうとしてた!」
「は? は、剥がそうとなんてしてない!」
「ジョゼちゃん落ち着いて。それに、ここは図書館。お静かに」
お姉さんの言葉に、ジョゼ、と呼ばれたその子はハッとした顔になり、そして、きゅっと口を一文字に結びながら、葉奈を思い切り睨みつけてきた。
「あの、私、ゴミがついてたから……だから、それを剝がそうとしたんです。あの、盗もうとなんてしてません」
「ゴミ? あら、ほんと。絵本の分類シールが、どこからか剥がれちゃったのね」
「……分類シール?」
「ええ。この青いシールは、〇歳から二歳くらいまでのあかちゃん向けの絵本の背表紙に貼ってあるの。ちなみに、赤いやつは三歳から未就学児向けね」
「へえ……」
「ありがとう。ポスターが汚れてると思って、きれいにしようとしてくれたのね」
にっこり微笑んで、お姉さん――渚、と書かれた名札を提げたその人は、葉奈に向ってそう言った。
ふわふわした栗色の髪を後ろでゆるく結わいて、大きなたれ目の瞳を持った渚さんは、こうして間近で見ると、すごく美人だった。思わず、ポッと頬を赤らめてしまうくらいに。
「さ、じゃあお嬢さんたち、行きましょう。赤ちゃんたちがお待ちかねよ」
「え。私も、ですか?」
「うん。ジョゼちゃんは、今日も手伝ってくれるでしょう?」
「こいつがいるなら、行かない」
「こいつって、ちょっと!」
「ええ~。ジョゼちゃんが来てくれないと、大型絵本をめくるのを手伝ってくれる人がいなくて、困っちゃうなあ。それに、スタンプを押す人も欲しいし……どうしよう~」
渚さんは頬に手をあてて、わざとらしいくらい困った顔をした。
するとジョゼは「う」と言葉を詰まらせ、「わかった、行く」とすぐに頷いた。さらさらの髪が、まっかに染まった頬に垂れて揺れる。
「ありがとう! さあさ、それじゃ、出発! あ、あなたはゆっくりおいで。おはなしのへや、わかるでしょう?」
「あ、う、は、はい」
言うだけ言うと、渚さんは急ぎ足でその場を去って行った。その後を追うように、謎の少女ジョゼも歩き出す。
去り際、ジョゼは一度後ろを振り向いて、葉奈を思い切り睨みつけ、
「あんたは来るな!」
と、言った。
「は、はあああっ?」
葉奈はむかついて、なんなの、あいつっ、と声に出した。すると、巡回をしていた他の職員さんが、おほん、と咳ばらいをしてきたので、慌てて口を閉ざした。
もう帰ろう。
あんなに性格の悪い子、はじめて会った。あんな子と関わり合いになるくらいなら、帰って勉強してた方がマシ。
怪我さえしていなければ、ずんずんと大股で歩いていただろうが、ギプスのせいでそんなことはできず、葉奈は松葉杖を持ち直して慎重に歩き出した。
エスカレーターで一階へ下りると、すぐに子どもの笑い声が聞こえてきた。
さっきはあんなに静かだったのに、いつの間に?
なんて考えていると、「あ、君、もうはじまるよ」と、先ほどカウンターで渚さんと話していたおじさんの職員が葉奈に気づいて、「さあほら、早く」と手招いた。
「え、あの、ちょ、」
勢いに押されて、思わずついていってしまう。
おはなしのへやは、葉奈が普段授業を受ける教室と同じくらいの広さがあって、そこに赤ちゃんが六人と、その親御さんたちが集まっていた。先ほど「あーがりめ さーがりめ」と歌っていた親子の姿もある。
「ほら、靴脱いで。荷物持っててあげるから」
「え」
「床には座れないでしょう。椅子使いな。すみませーん、この子ちょっと、見学でーす」
おじさん職員はあれよあれよという間に、葉奈をいちばん後ろの小さな椅子に座らせた。その声に、お母さんたちは葉奈を振り向き、「あら、怪我してるの?」「大丈夫?」と声をかけてくる。
だいじょぶ、です、とぎこちなく返事をしていると、前方から鋭い視線を感じた。
見なくてもわかる。
が、一応顔を上げる。
……案の定、ジョゼがすごい目で葉奈を睨んでいた。
「はい、では時間になりましたので、あかちゃんおはなしかい、はじまりま~す。泣いちゃったり、立ち上がっちゃったりしてもぜ~んぜん大丈夫です。途中退席もOK! 撮影や録音だけはごめんなさい、ご遠慮くださいね~」
入り口を正面にして左の壁沿いに渚さんとジョゼが立ち、その横にローテーブルと、椅子が二脚置いてある。テーブルには緑色の布が敷かれて、その下には絵本が隠されているのか、本の形に浮き上がっている。
渚さんが、赤ちゃんとその親に向っておはなしかいの簡単な注意事項を呼びかける。すると、ぱちぱちと小さな拍手が起こった。
拍手が止むと渚さんは、それまで背中に隠していた右手を、ひょこっ、と正面に出してきた。すると、赤ちゃんたちから「きゃ~っ」とか「あ~っ」とか歓声のような声が上がる。
渚さんの右手には、クマのパペットが装着されていた。
でも、白い布を口のあたりまで持ってきているせいで、クマの顔はほとんど隠れてしまっている。なんで布? と思っていると、すかさず渚さんが口を開いた。
「あれれ? おはなしかいがはじまるのに、クマちゃんまだ寝てるみた~い。みんなでうたって起こしてあげましょう! せーの!
ととけっこう よがああけた
まめでっぽう おきてきな
……あれあれ? まだ起きませんね~。ではもう一度!」
もう一度、の合図に合わせて、お母さんお父さんたちがちょっと照れくさそうに歌を歌い、赤ちゃんたちはきゃあきゃあと笑った。
ふふ、と、その寸劇の可愛らしさに、葉奈は思わず笑ってしまう。
そうか、あの布は、クマのお布団だったのか。
すると、はらりと布が地面に落ちて、今度こそクマのぬいぐるみが現れた。
「あら! みんなが元気に歌ってくれたから、クマちゃん起きてくれましたね~。じゃあ、クマちゃんも一緒におはなしかい、聞いてくれるかな?」
ぺこん、とクマの頭が頷いて、「よかった~。じゃあ、みんなもクマちゃんと一緒におはなしかいをきいてくださいね~」と渚さんは言い、クマのぬいぐるみをそっとテーブルの上に置いて、布の下から絵本を取り出した。
「近頃雨が多いせいで、なかなか外で遊べなくて、みんなちょっとたいくつですよね~。でも、大丈夫! そんな日は、絵本の世界を冒険しちゃいましょう。じゃあ、最初のお話は……」
渚さんの読み聞かせは、思わず肩の力が抜けてしまうくらい優しい声色で、葉奈はその様子にうっとりしてしまった。
よく見ると、登場する絵本の背表紙には、どれも青色の丸シールが貼ってある。
そうか、さっき渚さんが言っていた通り、あれが貼ってあるってことは、赤ちゃんのための本なんだ。
葉奈はなんだか、図書館の裏側を知ったような気持になって、少しわくわくした。
赤ちゃんが飽きないようにの配慮なのか、おはなしかいは絵本と歌を歌いながらの手遊びが交互に行われてゆく。紹介される歌は知らないものが多かったけれど、「てるてるぼうずのうた」だけは知っていたいたので、葉奈は渚さんの歌声に合わせて、小さな声で歌ってみた。
おはなしかいも終盤にさしかかると、普通の絵本の十倍はありそうなくらい大きな本が登場した。
これには、ちょっと飽きてぐずりはじめていた赤ちゃんたちも、思わず興味を引かれている。
これが、さっき渚さんが言っていた「大型本」なのだろうか。
葉奈がそう考えていると、すかさずジョゼが渚さんの反対側に立ちだした。テーブルの上に台のようなものを置き、そこにしっかりと大きな絵本をたてかける。
「はい、じゃあ最後は、ぴょ~ん、という絵本を読みます。おはなしの節々で動物たちがぴょ~んとジャンプをするので、それに合わせてお子さんを軽く持ち上げてあげてください。あ、でも、無理はしないでくださいね。ではいきます」
うさぎがぴょん、くまがぴょん、さかながぴょん……と、ページを捲るごとに色々な動物たちがジャンプをする。
渚さんが一ページめくるごとに、ジョゼはまるで、それが自分に与えられた最も大事なミッションだというように、神妙な顔でページを受け取ってゆく。
なるほど、確かに、これだけ大きな本だったら、捲ったページを捕まえて、尚且つしっかり支えてくれる人がいないと、ぐらぐらしてしまうのだろう。
「はい、ぴょ~ん、という絵本でした」
ぱちぱちぱち、と拍手が起こる。渚さんは大型本の影からクマのぬいぐるみを再び取り出すと右手に装着し、「あれっ?」と声を上げた。
「クマちゃん、もう帰る時間なの? そっかあ。じゃあ、みんなにお別れしよっか。
くまさんくまさん 回れ右
くまさんくまさん 片足あげて
くまさんくまさん さようなら また来てね~」
くるくると自在にクマを動かしたかと思うと、渚さんは「ばいば~い」と言いながらその手を下に振る。
赤ちゃんたちはきゃあきゃあ笑って、保護者からぱちぱちと拍手が上がった。
「ありがとうございました~。最後に、スタンプカードを持ってる方は、うちの小さな助手からもらっていってくださいね~」
助手?
葉奈が首を傾げながら前を向くと、いかにも緊張してます、といった顔のジョゼがテーブルの前に立ち、スタンプを手に「こ、こちらへどうぞっ」と声を張っていた。
「ジョゼちゃん、いつもお手伝いして偉いわね、ありがとう~」
「い、いえ」
「あ、うちの子、今日で六個貯まるの。何か貰えるのよね?」
「は、はいっ。こ、この中から、お好きなのを、ドウゾ!」
「あら、ありがとう~っ。ヒロくん、ほら、どれにする?」
「だあ!」
わあわあと、おはなしのへやが騒がしくなる。
来場者に一生懸命スタンプを押すジョゼと、にこにこしながらクマのぬいぐるみを手に装着し、「ばいばーい」「またねー」「次回は来週の水曜日です~」と穏やかに投げかける渚さん。その姿を、葉奈はぼうっと眺めた。
「君もやるかい。子ども司書」
「はへ?」
不意に、横に立っていたおじさん職員にそう声をかけられ、その存在をすっかり忘れていた葉奈は、驚きのあまり思わず間抜けな声を出した。
子ども司書?
なにそれ。
「お疲れ様でした。ジョゼちゃん、いつもありがとうね~」
六組の親子をすべて見送り、おはなしのへやの扉に「かたづけ中!」と書かれた看板を提げてから施錠をして、渚さんはジョゼを振り向いた。
「ん」
「あなたも、どう? 楽しかった?」
「え。あ、は、はい。あの、すごかったです!」
「本当? ならよかった!」
「フン! すごかったです、なんて、バカみたいな感想」
「ちょっと、何よ!」
「こら、ジョゼちゃん。そんなこと言っちゃいけません」
渚さんがぴしゃりとそう言うと、ジョゼは目に見えてショックそうな顔をする。それを見て、おじさん職員が「あはは、ジョゼちゃんは本当に渚くんが好きだなあ」と笑いながら言った。
「ジョゼちゃんはね、子ども司書っていって、図書館のお手伝いをしてくれるボランティアさんなのよ」
「ボランティア……」
葉奈は、頭の中で、毎年春になると必ず行われる道徳の授業でのごみ拾いを思い出した。葉奈がやったことのあるボランティアといえば、それくらいだ。
「見たことないかしら。学校にも、募集のポスターを貼ってもらっているんだけど」
「う、うーん……私、そういうのちゃんと見ないから」
「そう。やっぱり、宣伝が足りないのかしら」
渚さんは、いかにも「困ったわ」という顔で首を傾げた。
「うちの館は特に人が少なくて。次の会議までに、もう一人でも入ってくれたら、だいぶ助かるだけどなあ……」
ちらっ、と、アーモンド形の瞳がこちらを向く。葉奈は思わず後ずさりしそうになったが、椅子にこしかけたままの状態では逃げることも叶わない。
「まあまあ、渚くん。今日はこのくらいにしてあげて。君、カードは持ってるの?」
「えっ。カードって?」
「図書館のカードに決まってるでしょ。バカみたい」
うろたえる葉奈に、ジョゼがふんと鼻を鳴らしながらそう言う。葉奈はジョゼのその言葉にムカッときて、「何、その言い方。ていうか、さっきから、どうしてそんなにつっかかってくるのよ!」と大きな声を出した。
「まあまあまあまあ! ジョゼちゃん、ほら、渚くんと一緒に次の展示で使う装飾を作ってくれるかな?」
「……ん」
「ちょっと、待ちなさいよ!」
「ほら、君はこっちへおいで。それから、ここは図書館。大きな声は出さないように」
「あ」
おじさん職員に言われて、葉奈は口をつむぐ。ジョゼは、そんな葉奈をちらっと見て、
「ふふん」
と。
いかにもバカにしたような笑みを浮かべた。唇を三日月みたいににんまり歪めて。
な、な、な、
なに、あいつ!
葉奈は、何か言ってやりたい気持ちをぐっと諫めて、胸の内でそう叫んだ。
いちばん最初にジョゼを見た時、葉奈は「お姫様みたい」と思ったが、今は違う。お姫様なんかじゃ、全然ない。それどころかむしろ、シンデレラに出てくる意地悪な「ままはは」みたいだ。
「さ、こっちだよ」
おじさん職員はムッとする葉奈にそう声をかけ、カウンターまで導いた。
「あー、本田くん、ちょっといいかな」
そう呼びかけると、カウンターの中にあるテーブルの中でなにやら仕事をしていた、若い男性が顔を上げ、「なんすか」とちょっと面倒そうに言いながら寄ってくる。
「この子、新規登録ね。今、何年生?」
「ろ、六年生です」
「そう。なら、身分証はいらないね。じゃ、本田くん、後よろしく」
そう言い残すと、おじさん職員はひらひらと手を振って、事務室の奥へ消えていく。
残された葉奈はどうしたらいいかわからず、『本田くん』と呼ばれた男の人をちらっと見た。クレヨンの黒色みたいにはっきりと濃くて暗い髪色を、いわゆるマッシュルームカットというやつにしている。長い前髪のせいで目元が隠れて表情が読みづらい。
「じゃ、これ。書いてね」
「え」
「あ、住所とか電話番号とか、一人で書ける?」
「そ、それくらい書けます!」
小さな子どもみたいに扱われたのがなんとかなく嫌で、葉奈はそう返し、差し出された用紙に向き合った。
『登録・相談』と書かれた青色の看板の下にあるそのカウンターは、貸し出しカウンターよりもテーブルが低く設置されていて、葉奈の腰のあたりまでしかない。
松葉杖を横に立てかけて、書きやすいように立ち位置を微調整していると、本田さんは「あ」と短く声を出して、ささっと中から椅子を持ってきた。
「座んな」
「あ……ありがとう、ございます」
「うん」
それから、葉奈の正面の椅子に腰かけ、カウンター越しに葉奈が申し込み用紙を記入するのをじっと見始める。
見られているということに緊張して、葉奈はなんだかドギマギとしてしまって、その結果、ひょろひょろとミミズがのたうったような文字になってしまった。いつもなら、もっと上手く書けるのに。
「じゃ、今度はこっち。名前書いて」
次に葉奈に差し出されたのは、『市民図書館利用カード』と書かれた、長方形の水色のカードだった。黒い直線がいくつも並ぶバーコードと、その下に十桁の数字が書かれている。
本田さんはそのカードの下半分、白い枠になっているところを、トン、と指でさして、「ここね」と言った。
言われた通り、名前を書く。
今度は慎重に、とびきり綺麗な文字を心がけて。
意識したおかげで、ぴかぴかの図書館カードには、満足のいく文字を書くことができた。本田さんは葉奈からカードを受け取ると、バーコード部分をピッ、とスキャナーで読み込み、「はい。じゃ、そのカードは無事、あなたのものになりました。よかったね」と言った。ちょっとおどけたような口調だったので、葉奈は戸惑った。
「貸し出しは図書が十五点、CDが六点までです。貸出期間の延長は一回までできます。外にあるブックポストが二十四時間開いているので、返却だけだったらそっちを使ってもいいですよ。でも、CDは割れやすいのでポストにはいれないでください。うちの図書館にない本とか、人気の本とかは予約をいれることもできます。予約はインターネットからもできますが、まあわからなかったら僕らに直接言ってください。はいこれ、パンフレットと君のカード」
本田さんはすらすらそう言うと、葉奈を真っすぐに見ていたずらっぽくニッと笑い、
「楽しい楽しい読書の世界へようこそ。たくさん本を読んでくださいね」
と、言った。
長い前髪がサラリと横に流れて、本田さんの目元が露わになる。まん丸大きくてきらきら光る、薄茶色の瞳だ。葉奈はドキンとしてしまって、「あ、う、は、はい」と、そんなぎこちない返事を返した。
「君、子ども司書やんの?」
「……それ、さっきも訊かれました」
「渚さんに?」
「はい」
「あはは! あの人も大変だなあ。うちには今、子ども司書の登録をしてくれてる子が二人いるんだけど、そのうち一人はこの春中学生になって、学校が忙しくてほとんど来れなくなっちゃってさ。で、もう一人は、」
「さっき会いました」
「おおっと」
葉奈が目に見えてムッとした顔をしだしたのを見て、本田さんは何かを察したのか口をつぐんだ。
「まあ、あの子も悪い子じゃないんだよ。ちょっと気が強いだけで。俺もしょっちゅう睨まれてるし」
「えっ、そうなんですか」
意外だ。
ジョゼが、本田さんみたいな図書館の人にも、自分に対するのと同じような態度をとっていただなんて。
「うん。ま、なんにせよ、本が好きならきっと楽しいよ。館内の展示物を作ったり、おすすめの本を紹介したり、あと、おはなしかいの手伝いをしたりさ。考えておいてよ」
そう言って、本田さんは『子ども司書申込書』と書かれた紙をパンフレットと一緒に挟んで、葉奈の手提げかばんにいれてくれた。
低学年の時から使っているかばんは、いかにも子どもっぽいちょうちょの刺繍がされていて、少し恥ずかしいような気持になった。でも、本田さんはそんな葉奈の恥じらいなんてまったく気づかない様子で、さっさと仕事へ戻っていく。
カウンターから離れて、せっかくカードを作ったんだからと思い、葉奈は何かを借りて行くことにした。
何を読もうか迷っていると、ふと、カウンターの正面にでんと構える背の高い棚が目に入った。そこには『今日返却された本』と書かれた看板が掲げられている。つまり、誰かが今さっき返したばかりの本、ということだ。
「あ」
葉奈はその中から、自分でも読めそうなタイトルを探した。
そして、その中から唯一、知っているタイトルを見つけた。
赤毛のアン。
カウンターに持っていくと、本田さんが対応してくれた。
手提げかばんに本をしまう葉奈を見ながら、本田さんはどうしてだがにんまり笑って、
「君に、“腹心の友”ができますように」
と。
そんなわけのわからないことを言った。
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