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あまもり図書館のジョゼ
『ぽつぽつぽつ あめのおと
季節は六月。もうすっかり梅雨ですね。
雨の日は、お部屋でゆっくり読書をたのしみませんか?
おもしろい本 取り揃えています』
水色の画用紙に青色のペンで書かれたその文章を、葉奈はじっと眺めた。
自信なさげに小さな文字のわりに、右端の方にでかでかとカエル(?)のイラストが描かれている。何故はてながつくのかというと、それが本当にカエルの絵なのかどうか、わからないからだ。見ようによってはクマにも、犬にも、怪獣にも見えるし……つまり、その絵はあまり上手とは言えないのであった。
「葉奈ぁ、なにしてんの。行くよ!」
「あ、う、うん!」
名前を呼ばれてハッと顔を上げ、葉奈はひょこひょこと方向転換をした。
クッションのついた脇あての部分を挟み込み、指の形にくぼんだグリップをぎゅっと握る。杖先を前に出し、そこに体重を乗せるように一歩を踏み出す――うん、だいぶ慣れてきた。けれどやっぱり、前を歩く朱莉と真央のペースに追いつくには、一苦労だ。
「なに見てたの?」
「え? 図書館の張り紙。おもしろい本取り揃えてますって書いてあったよ」
「ウケる。てか、図書館が本を取り揃えるのは当たり前じゃん」
朱莉の言葉に、確かにー、きゃはは、と真央が笑う。はは、と葉奈もつられて笑う。
べつに、朱莉の今の発言が面白いと思ったわけではないけれど、葉奈の体はもはや、『友達が笑ったら、自分も笑あげるべし』とインプットでもされているかのように、自然に笑い声が出るようになっていた。
「じゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
シラベ川という川にかかる、大きな赤い橋の前で、葉奈は二人に手を振った。葉奈は橋を渡って真っすぐいったところにあるマンションへ、二人は橋を正面に右へ曲がり、しばらく行ったところにある住宅街へ、それぞれ帰るのだ。
かしゃん、かしゃん、と音をたてながら、少しずつ進んでゆく。背中にずしんと圧し掛かるランドセルが邪魔くさい。重さに耐えかねるように、両手の平にはすっかりマメができていた。
「はあ」
葉奈が足を怪我したのは、つい三日前のことだった。
掃除当番で、階段のほうきがけをしていたら、ふざけて走り回っていた一年生の男の子が勢いよくぶつかってきて、そのままゴロゴロと転げ落ちた。転倒の仕方が良くなかったようで、足首を思い切り捻って、骨折をしてしまった。
腕や背中にもいくつもあざができたし、正直、とんでもないほど痛かったけれど、原因を作った一年生の男の子は二人とも泣きじゃくりながら「ごめんなざいぃいい」と謝ってきて、そうなるともう、怒ろうにも怒れなかった。ついこの間まで幼稚園や保育園に通っていたような子たちに泣いて謝られて、それでも怒鳴り散らせるような人なんて、いるのだろうか。
……いや、もしかして、朱莉や真央ならできるのかもしれない。
そこまで考えた葉奈は、はあ、ともう一度ため息をついた。
松葉杖で登校するようになって、最初の一日は、まるでヒーローのようにもてはやされた。
女子たちは「大丈夫?」「手、貸してあげる」「荷物持つよ」とどこか楽しそうに世話を焼いてくれたし、男子たちは「すげー!」「ちょっと杖貸してくんない!?」と葉奈に……というよりは、松葉杖に興味津々だったし。
人から注目されるというのは、正直、気分が良かった。
葉奈は普段、あまり目立つタイプではない。
学校で、男子がバカなことをしていたって、朱莉みたいに「ちょっと男子、やめなさいよ!」と声を張って注意をしたりはしないし、登下校中、ちょっとかっこいい高校生とすれ違ったって、真央みたいに「ねーっ、今の見た!? 超イケメン!」って騒いだりしないし。
だから、みんなが寄ってたかって葉奈にあれこれ世話を焼いてきたり、質問したりしてきたときは、痛みも忘れて胸が躍ったものだ。
そう、私は怪我をしているの。だから手助けしてね。
杖を触りたい? はいはい、どうぞ、順番にね。
口には決して出さなかったけれど、心の中では、そんな風にちょっと得意にすらなっていたほどだ。
でも、子どもというのは(葉奈もまた子どもだけど)、とんでもなく飽きが早い。
松葉杖登校二日にして、クラスメートは葉奈に、完全に飽きていた。
それどころか、先生がことあるごとに「春原さんを手伝ってあげましょう」なんて言うものだから、面倒臭いな、というような空気すら漂いはじめたほどだ。
朱莉と真央は、葉奈がいつも一緒に行動している友達だけれど、正直、葉奈はこの二人のことが少し苦手だ。
六年生になって最初の席順が近かったことで急に話すようになり、そこからいわゆる“グループ”というやつになったのだが、正直、たまに二人が自分を見下しているなと思う時がある。具体的にいつ、とか、どういう時、とかっていうのは、上手く言えないけれど。
そんなわけで、怪我をした葉奈に、心から親切にしてくれるような人は(先生を除いて)、今現在、学校に一人もいない。
すると葉奈の元には、怪我の痛みだとか、ギプスへの不快感だとか、そういうものだけが取り残されたのだった。
翌日は、雨が降っていた。
つまり、葉奈にとって最悪のコンディションの日――
と、思っていたのだが。
「今日は休めば?」
のろのろと学校へ行く支度をしていた葉奈に、お母さんがそう声をかけてきた。ぱちくりと目を瞬かせる葉奈。
休めば。
ヤスメバ?
聞き間違いでなければ、確かにそう聞こえた。
あの、どうしても気分が乗らない日、どれだけ行きたくないとゴネても、「熱がないなら行きなさい! 子どもは風の子元気の子!」とぴしゃりと言っては聞き入れてくれないほど、学校を休むのに厳しいお母さんが?
「い、いいの?」
「だって、雨の中その足じゃ、辛いでしょう。それに、学校の廊下ってつるつるしてるじゃない? また転んだりしてギプスが増えたら、笑い話じゃ済まないわよ」
「やったー!」
「その代わり! 家でちゃんと勉強すること! いい!?」
「わかった!」
元気よく返事はしたものの、そんなことするもんか、と葉奈は思っていた。
せっかく降ってわいたお休みなのだ。しかも、お父さんもお母さんも仕事で家にいない! やりたい放題だ。そうだ、この間買ってもらったゲームをやろう。一日一時間までって決まっているけれど、自分ひとりしか家にいなければバレることもないだろう。
「あ、雨ノ森小学校さんですか? わたくし、六年二組の春原葉奈の母でございます。ええ、はい。あの、担任の藤井先生はいらっしゃいますでしょうか――」
そうこう考えていると、お母さんがスマートフォンで、学校へ電話をかけだした。
葉奈の家には固定電話がないので、誰かに連絡をしたい時は、お父さんかお母さんにスマホを貸してもらう。
お母さんは電話をするとき、まるで別人になったみたいに声色や言葉遣いが変わる。よそゆき、というのともまたちょっと違う、その不自然な感じは、聞いていて面白い。
「あ、藤井先生ですか? 春原葉奈の母です。あの、こんな雨ですし、松葉杖じゃなにかと……ええ、はい。他の生徒さんを巻き込んだりしてしまっても申し訳ないですし。はい、では、今日は欠席ということで、よろしくお願いいたします。失礼いたします…………葉奈、言っておくけど、ゲームはロックかけてるからね」
「えっ」
「残念でした。大人しく勉強してなさい!」
お母さんの言葉に、葉奈はがっくしと肩を落とした。
そんな葉奈のことを、ずっと横目で見ていたお父さんが「ははは」と笑った。
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