夏ご

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夏ご

 アクリル絵の具十二色を買ったのは、去年のことだった。それを引っ張り出し、小さな紙皿に何色か広げる。  どうしてこの家に持ってきてしまったのだろう、と考える。アトリエに全部入れておけば良かったものを。  優夜は白いキャンバスを前に、押し黙る。  去年これを買って、同じように色を広げた。筆を握るまでもなく、断念した。視界がちかちかして、気持ちが悪くなった。  今回は筆を握るまでは出来た。  白い紙皿に広げられたのは、レッドとコバルトブルー。それを混ぜる。混ぜたが、無理だった。  筆を投げたくなるが、道具に罪はない。かの有名な野球選手も道具を大事に扱えと言っていた。  優夜は筆を戻し、床に寝転んだ。怒りに任せ、左手の拳を床に叩きつける。ドン、と鈍く大きな音。下に住人がいないのが幸いだ。 「……痛い」  手の痛みから、優夜は左手をぎゅっと戻して丸まる。  投げられた言葉が、身体の中で反芻している。ぐるぐると尻尾を追いかける犬のように回り、どこへと行けない。きっと、どこへも。  起き上がり、絵の具も全てそのままに脱衣所へと向かった。服を脱ぎ捨て、風呂場に入る。縦に長い浴室の鏡は真ん中から綺麗に放射線状に割れていた。 『大家さん、風呂場の鏡割っちゃった。直した方が良い?』  時折、今のように"描けない"という事実と葛藤することがある。どうすれば良いのか分からず、そこらじゅうをのたうち回ってしまう。その矛先がこの鏡に向いた。  雅史は『何故』とも『見せてみろ』とも言わなかった。 『そうか。怪我はないか?』 『うん』 『どうせ修理するんだ。そのままにしておきな』  直した方が良いか、と聞くのは、直すのが面倒だからでも直したくないわけでもない。直して、また壊すことがあるかもしれない。  優夜はその返答にほっとした。  朝臣も鎌崎も洗面所は使っても浴室までは入らない。誰も知らず、ひっそりと割れたまま。  シャワーを浴びて、道具を片付けてベッドに倒れ込んだ。  バイヴ音に目を覚ます。音の近さに手を伸ばし、震える携帯を手に取る。相手も見ずに応答ボタンを押した。 『もしもし、姉さん』  優夜の弟、暁だ。  その声に目を開ける。優夜はぼんやりと白い天井を見上げた。珍しくベッドで眠っていたらしく、背中が痛くない。  寝返りをうつ。 『生きてる?』 「生きてる」 『今どこに住んでるんだっけ? というか東京にいる?』 「東京でも郊外の方。久遠の家には?」  携帯を耳に当てたまま起き上がる。夏の朝の光がカーテンから漏れ、それを憎らしそうに見た。外の近い木に蝉がいるのだろう。鳴き声が聞こえる。 『今行ってきたところ。東京駅更に進化してない? また一段と綺麗になってるよ!』 「へー、最近行ってないから知らない」 『鎌崎さんって今日ギャラリーにいるかな? あ、姉さんにもお土産買っていくね。とりあえず最寄り駅教えて』 「ありがと」  最寄り駅を伝えて、通話を切る。優夜は手を伸ばし、エアコンのリモコンのスイッチを押した。  鎌崎は仕事、朝臣は予備校か夏期講習か勉強か遊びか、とりあえずこの前の素麺の時から顔を合わせていない。母親が家にいるのもあるのだろう。夕飯のときも顔を出さないので、優夜は雅史と夕飯を一緒に食べている。お陰で毎日甲子園の話題が尽きない。  そよそよと冷たい空気に再度目を瞑る。  優夜と暁は双子だが、片割れというより分身という方が合っていた。 『僕が死んでも姉さんが残る、姉さんが死んでも僕が残る、と思ってたんだよね』  母親が死んだ。その葬式の後の会話だった。  暁はピアノの椅子に座って言った。優夜の方を振り向く。 『お母さんのために。わたしも同じことを思ってた』 『うん、でも』  暁は連絡を受けて留学先からすぐに戻り、母親の遺体と対面した。 『わたし達、生きよう』  優夜を見た。その瞳が、暗く燃えているのが分かった。  暁も同じ瞳をしているのだろう。鏡を見ずとも分かる。 『生き抜いて、お母さんのところに行こう。父さんもいるかもしんないけど』 『父さんへの扱いが雑だなあ』 『だってよく知らないし』  それは同意見だ。暁は立ち上がる。 『きっと、久遠の家の人たちが来ると思う』 『葬式にも何人か居た』 『僕は久遠の家に入る』  その言葉に優夜が静かに頷く。暁はそうするだろうと感じていた。同じソファーに腰掛け、前屈みになる。優夜も同じ格好をしていた。 『明日すぐに留学先に戻る。大学からも声がかかってるんだ。そこで先生からの推薦を貰って、卒業したらすぐにでもピアノを弾いて稼ぐ』  現実的な人間が聞いたなら、なんて恐ろしく夢見がちな計画なのだと嘆くだろう。しかし、この場には二人。どちらも芸術家だ。 『その為には金が必要だ。久遠の人たちも僕が有名になったら悪い顔はしないと思う』  そして、金にがめつい。 『暁にはそれが良い』 『優夜はどうする?』 『とりあえず金が無いからな。十八までは面倒見てもらって、高校卒業したら絵を売って返して自由の身になる』 『そう言うと思った。姉さん、僕らって無謀だよね』 『そんなのは他人に言わせときゃ良い』  片方の口端を吊り上げ目を細める優夜に、暁も笑う。 無謀、上等だ。  目を覚ます。玄関のチャイムの割れた音。起き上がり、のろのろとベッドから下りた。チャイムが再度鳴る。次に携帯が震える音もしたが、それより玄関に行く方が早いだろう。 「優夜、寝てるのかな」 「酷い音だね、このチャイム」 「鳴るだけ良いじゃない」 「確かに古いアパートだけどさ」  ピンポーン。  扉を挟んでも聞こえる声。暁だけでなく鎌崎も居るらしい。優夜は体重をかけて扉を押した。外の暑い空気に触れ、「うわ」と驚いた声を出す暁と呆れた顔の鎌崎が見えた。  約一年ぶりの再会だが、暁はそれほど変わってもいない。色素の薄い髪色と瞳。 「姉さん、このチャイム直したら?」 「何度も押すな、煩い」 「二人とも久しぶりに会った最初の会話、それ?」 「僕ら生きてれば上々だからね」 「鎌崎はなんでいんの? 仕事は?」  まだ陽は高い。鎌崎が扉を引いて暁が部屋に入る。狭い玄関に成人済三人は人口密度が高すぎる。早々に優夜は廊下からリビングへ逃げた。  寝室のエアコンを切り、リビングの窓を開ける。ベランダに出て、下の花壇を見た。 「何言ってるの、もう十八時よ」 「こんなに明るいのに」 「夏だもんね。しかも湿気がすごい」 「オーストリアって今がベストシーズンなんでしょう?」 「何より過ごしやすいよ。姉さん、エアコンつけて良い?」  暁は優夜の返事を待たずにテーブルの上に並んであるリモコンのひとつを手に取り、スイッチを入れた。  優夜は部屋に戻り、窓を閉める。鎌崎は冷蔵庫から水出しのアイスコーヒーを出した。三つのグラスに注ぐ。 「あ、これワッフルだよ。お砂糖しゃりしゃり」 「東京駅の?」 「ううん、コンビニ。店員さんに『これお砂糖しゃりしゃりしてますか』って聞いたからね」 「困って店長呼んでたわ」 「一緒に居たなら止めろよ」 「無理に決まってるでしょ」  鎌崎はグラスをテーブルに置きながら溜息を吐く。姿形は違えど、この二人は双子。止められる力があるならきっともっと出世しているだろう。  特に気にせず、暁はコンビニワッフルを開け始めていた。 「なんか……暁がいると、普段自分がこんななのかって少し自省する」 「本当に、優夜と行動パターンは似てる」 「そりゃ双子だからね」  お砂糖しゃりしゃりのワッフルが好きなのも同じだ。好き嫌いは酷似している。きっと、東京駅でも土産を沢山見てどうにもピンとくるものに出会えず、コンビニでワッフルを見て手に取ったのだろう。想像ができた。  優夜はワッフルを口に入れる。思えば朝から何も食べていないのに気づく。 「ここらへん、随分静かなとこだよね。前住んでたとことは大違い」 「前のとこは久遠の家出て、土地勘ないからてきとーに決めたんだよ。不夜城みたいなとこだったよな」 「でもここよりは新しくてセキュリティしっかりしてたよ。階段もギシギシ言わなかったし。騙されてるんじゃない?」 「京都のタクシーでぼったくられてた暁に言われたく無いな」 「あれ酷かったよね。もう京都でタクシー乗らない」  しゃりしゃりと砂糖を噛み砕く。鎌崎はその会話を聞きながら、アイスコーヒーを飲んだ。  優夜は立ち上がり、棚の下から洋酒を取り出した。ストレガだ。そんな場所にあったとは知らず、鎌崎は目を丸くする。 「飲むの?」 「コーヒーにいれる」 「今日、朝臣くん予備校?」 「さあ、知らない」 「誰、トモオミくん」 「ここの大家さんの孫」 「優夜の様子見に行ってくれる代わりに夕飯一緒に食べる約束してるの」 「へえ、予備校ってことは、先生?」 「いや、高校三年。この前怒らせて、そのまま」  更に鎌崎は目を丸くする。しかし、暁もまた違う意味で目を丸くしていた。 「未成年!? だめだよ姉さんそれは」 「はあ?」 「怒らせてって、喧嘩でもしたの? なんで言わないのよ」 「喧嘩じゃない。進路のこと聞いたら、突っ返された。鎌崎に言ったら、要らない気まわしてくると思って」 「要らない気ってねえ……」 「朝臣にわたしの様子見て来いとか言うだろ。それで、朝臣も断れなくてわたしの所にくる。それに気付いたわたしがブチ切れる。終了」 「高校生と修羅場するの?」 「暁はちょっと黙ってて」  確かに、事情を訊いていれば鎌崎はその対応をしていた。朝臣に話を持ちかけた身としては黙っていることはできない。  鎌崎は優夜からストレガを取り上げる。これを買ったのは最近なのだろう。朝臣と夕飯を共にすることが減ったからだ。  溜息を吐く。何故、成人済の良い大人が高校生を怒らせるような言葉を吐けるのだろうか。  言われた通り、素直に暁は黙ってワッフルをもぐもぐと食べている。 「どうして描いてないのかって言われたんだよ。好きで画家になったのに、どうして今描いてないのかって」  折るはずが折られた、あの時。 「わたしは答えられなかったし、返す言葉もなかった」  鎌崎は口を噤む。言葉が思いつかない。  暁は静かに挙手した。 「なに」 「お腹空いた」 「確かに。飯にしよう」 「え、今の空気でご飯にできるの?」 「腹が減っては戦はできぬ、だよ鎌崎さん。戦はしないけどね」 「近所のイタリアンにしよう。鎌崎と暁を連れてこようって話してたんだ」  ストレガを諦め、優夜はコーヒーを飲み干した。飲み終えた三つのグラスを回収していく。 「普通ヨーロッパから帰国した弟にイタリアン食べさせる?」  納得いかないという顔をした暁に、鎌崎も立ち上がり微笑んだ。 「あの店、自由に弾いて良いピアノがあるのよ」  アップライトだけどな、と優夜が付け加えた。
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