夏ろく

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夏ろく

 昨日母親が出国して、家の中はしんとしていた。朝臣は自室のベッドに横たわり、目を瞑っている。それから起き上がり、机の上に置いた携帯を手に取る。  ロック画面から検索画面へ。打ち込む文字を考えるうちに待機時間が過ぎ、暗転。机の上に放置された参考書と単語帳へと視線を向けた。  逃げている。  何から、逃げているのだろう。  進路から? 勉強から? それとも。  もう一度ロック画面を開く。検索欄へ文字を打ち込む。  『画家 事件』空白の後に続くのは『蜂永優夜』  検索ボタンを押した。香波は事件の詳細を口にはしなかった。知らないのならわざわざ言う必要はないと判断したからか、朝臣には関係ないのだと思ったからなのか、分からない。  心臓が煩い。中身の分からない箱を開けるとき、こんな気持ちなのか。この前の誕生日だった鎌崎のことを考えた。  鎌崎や優夜に直接尋ねるという方法は、朝臣の頭には無かった。デリカシーがないと思われるのは気にならないが、デリカシーがないことはしたくない。  検索結果を見る。  しかし、何もヒットはしなかった。画家に関する事件などはずらりと出てくるが、優夜の名前は含まれない。  ふと、優夜の雅号を思い出す。オウミ。どんな字を書くのか分からなかった。変換に出た漢字を見る。近畿の近江、青い海、次の候補が桜の水。優夜が嬉しそうに桜の樹を見ていたのを思い出した。  なんとなく桜水と入れてみれば、何件かヒットする。 「高校生の自殺、原因は……いじめ」  優夜がそれに関わっていたのか?  ゆっくりと、指をその概要の示すタイトルの上に置く。出てきたのは、学校でいじめがあり、女子生徒が家のマンションの屋上から飛び降り自殺をしたというもの。自室には遺書があり、部活でいじめを受けていたことなどが書かれていた。遺族は加害者や学校側へ損害賠償請求をしている。  部活はテニスだ。加害者も同じ部活に所属している。優夜は生まれてこの方、運動部に入ったことがないので香波のように走れるのはすごいと言っていた。  この記事のどこに、優夜が関係しているのだろうか。桜と水の文字がバラバラに引っかかったのか。  朝臣は画面をスクロールする。教育委員会などの調査が行われ、まだ決着はついていない。名前などは伏せられ、遺書の全文が載っていた。母親への謝罪、部活動でのいじめ、助けてくれなかった友人たちへの諦め。  そして、指が止まった。  『でも、私には桜水さんの絵があるので死ぬのは怖くありません』  『桜水とは画家であり、女子生徒が亡くなる以前にも画集などを出版している。女子生徒の机の前には桜水のポストカードが多く飾られ、遺書の封筒の中にも、一枚のポストカードが入っていたと母親は語っている』  指が震える。しかし、ここまで来て戻ることは出来ない。  入っていたポストカードの絵。桜水の作品。二人の少女が静かに落下している。背景は夜空。その顔は穏やかで、向かい合って、手だけを繋いでいた。 「怖くありません……」  一人じゃないのだと思ったのだろう。いじめられていたときも、その遺書を認めたときも一人だった。でもきっと、死ぬときは一人じゃない。  桜水の描いた二人の少女は同じ顔をしている。  本当の自分に会える気がしたのではないか。  そのページを閉じて『桜水 画家』で検索した。いくつか作品が並んだが、それよりも先に出たのは週刊誌のスクープネタのような記事。  何かの賞を取った時のつくり微笑んだ顔と、明らかにプライベートのときに道を歩く姿が撮られていた。いじめ自殺に絡め、桜水の作品や生い立ちなどが書かれてる。  それをすぐに朝臣は消した。沸々と煮えたぎる思い。時計を見る。深夜四時過ぎだ。外はまだ暗い。  鍵と携帯だけを持って、家を出た。  暗い道を行き、祖父の家の前を通り、新聞屋のバイクとすれ違う。夏の夜は涼しく、湿気が項を撫でた。  道を曲がれば、優夜の住むアパートが見えた。暫く手入れを怠っていた花壇に雑草が増え始めている。しかし、少しだけ土が湿っている箇所がある。雨はずっと降っていない。誰かが、水をやったのだろうか。 「ごめんな」  植物たちに謝る。  インパチェンス、ガザニア、マリーゴールド、アメリカンブルー。優夜の青い花が見たいという希望から入れた。  部屋を見上げる。カーテンは閉まり、当たり前に暗い。  少し落胆したような、安堵したような気持ちになる。優夜の姿を見たかったのだが、会って何を言えば良いのか分からない。  先に身体が動いていることに苦笑して、階段の方へ歩いていく。煙の匂いに、顔を上げた。  煙草の煙。その煙草を咥えた本人は目を閉じ、身体を器用に小さく折りたたんでいる。  朝臣は立ち止まった。驚きすぎて固まる。  火のついた煙草の先だけが、赤く灯っていた。  こくり、とその顔が動き、朝臣は思わず肩を掴んだ。その拍子に優夜が目を開いた。口から煙を吐く。 「あ」 「煙草、危ないですよ」 「え、ああ……」  吸って、煙を吐き、隣に置いていた灰皿でそれを消す。灰皿には二本、消された煙草があった。眠いのか、動きがゆっくりとしている。いや、いつもこんな速度だったかと朝臣は一連の動きを見ていた。  優夜は朝臣を見上げた。 「花壇、見に来たの?」  その質問に、一拍おいて、頷く。 「そうです」 「夕方に水はやっといた。なんか草みたいの出てきたけど、違うの抜いても嫌だなと思って放ってた」 「ありがとう、ございます」  したいのは、花壇の話ではない。  優夜は腕を前に伸ばした。その手が朝臣の近くまで来たので、掴む。やはり眠いのだろう、温かい。手を掴まれた当人は首を傾げていた。 「優夜さんは、なんでここに」 「なんでだっけ、えーっと、あ、コンビニにパンを買いに行こうと思って、酔いを覚まそうとここで一服」 「寝てましたよ」 「危なかった。今何時?」  朝臣は携帯を見た。午前四時半過ぎ。それを伝えると、バツが悪そうな顔をする。 「一体何時からここにいたんですか」 「二時くらい」  約二時間ここに居たらしい。朝臣は手を離そうと力を緩めれば、反対に握られる。次に強く引っ張られ、反射的に支えて、優夜を立ち上がらせた。階段をおりて得意げに笑う。 「朝臣、一緒にパン買いに行こ」  子供みたいに提案する。 「……何のパン、買うんですか」 「メロンパンと、あんぱんと、サンドイッチ。朝臣は何食べる?」 「俺はくるみパンを」 「良いね、それも捨て難い」  したいのは、パンの話でもない。  優夜は灰皿をそのままに進んで行く。 「朝日、見られるかな」  その足を止め、東を見た。未だ暗いままの空。 「もうすぐですね」 「じゃあ駅の方まで歩くか。朝の散歩」 「優夜さん、あの」  止まり、振り向いた。色素の薄い瞳が、何だと尋ねる。  何かを言おうと開いた朝臣の口が、やがて閉じた。それを見て優夜は少し肩を竦めた。 「歩きながら話そう」  そのまま、ゆっくりと歩き出す。美術館を巡る速度に似ていた。 「昨日の夕方、弟が来てさ」 「ピアニストの」 「そう、暁。明け方に生まれたから暁って漢字、わたしが夜に生まれたから優夜。母によると最初の声が聞こえた時にはまだ日が出ていなくて、次の声が聞こえた頃には日が出ていたらしい」 「なるほど」 「でもユウヤとアカリって、聞いた感じ男女逆じゃない?」  朝臣は黙る。暁の名前を聞いて最初にそれを思った。 「弟とよく、絶対どっかで入れ替わったんだって話になるんだよね。だから弟が兄で、わたしが妹だった未来があったかもって。そしたらわたしの名前、アカリ。どう?」  アカリさん、と呼ぶ想像をする。振り向くのは、違う誰かだ。 「誰ですかね」 「だよな」  ケラケラと優夜が笑う。そして両手の指で四角を作り、夜明けを切り取った。 「でもちょっと良いな。暁とか朝って、光を持ってるから。あ、朝臣も朝入ってるな」  不意に振り向かれ、朝臣はぎこちなく頷いた。指の四角は崩され、家やビルの隙間から朝日が差し込む。
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