秋さん

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秋さん

 優夜の家のチャイムを押した。割れたような音。これを眠っていても気付かないというのだから、大きな地震が来ても起きないのではと心配にはなる。案の定応答がなく、朝臣は鍵を使って家に入る。  ここの鍵を普通に渡されたのは、ここには盗られたり荒らされたりして困るようなものが何もないからだろう。優夜にとって本当に大事なものはアトリエに詰まっていた。  リビングまで行くと、優夜はソファーに寝そべっていた。夏の間はここが定位置だ。  健やかに静かに寝息を立てている。薄い肩と細い足首。その肩に重いものが背負えるとは思えない。  しかし、朝臣には想像できないほどのものが乗っているのだろう。  テーブルに鎌崎に持たされたデパ地下の惣菜を置く。その音に寝返りをうち、優夜はソファーから落ちた。 「痛い」 「大丈夫ですか」  んー、と返答しながらソファーに寄りかかる。時計を見てからテーブルの上の惣菜へ視線を向けた。  それからやっと立ったままでいる朝臣を見た。 「鎌崎とどっか行ってたの?」  何故ばれたのだろう。  二拍沈黙を置いてしまえば、肯定を示した。優夜は固まる朝臣を見て少し笑う。隠すつもりだったのだろう、とそこまでばれた。 「鎌崎の香水の匂いと鎌崎がよく持ってくる惣菜と、画材の匂い。芸術に目覚めたか」 「……違います」 「ふーん」  リモコンでテレビを点ける。朝臣は優夜の隣に座った。画材の匂いが近くなり、優夜の胸の底がざわめいた。  テレビの中では、昼下りの散歩番組がやっている。洋食屋が紹介されていた。  優夜はコーヒーを持ってこようと立ち上がろうとした。その腕を掴む。 「なに」 「ちょっと、座ってください」  言われた通り、優夜は再度その場に座った。 「優夜さんは」 「ん?」 「今も、一人なんですか」  朝臣の質問に、首を傾げる。一人とは。 「結婚ならしたことないけど」 「そういうことじゃなくて」 「子供もいたことない」 「いたら驚きます。じゃなくて」 「今は朝臣といるよ」  ほら、というように優夜は自分と朝臣を交互に指さす。その言葉に朝臣は口を開き、閉じて、最終的に溜息を吐いた。  そういうことでもなかったらしい。優夜は指を顎に当てた。 「謎掛けか」 「……もういいです」 「え、答えは?」 「腹減ったんで昼ごはんにしましょう」  えー、と不満げな声をあげる。朝臣は腕を離して惣菜のパックをビニール袋から取り出した。頬杖をつきながら優夜はそれを見る。 「わたし、ここに来る前は飯を誰かと食べるのが美味しいって意味分かんないなあと思ってたんだけど」  膝立ちになった朝臣はそちらへ振り向いた。 「朝臣と食べるようになって少し分かった気がする」  その答えだけで十分だ。  その変化だけで。 「……そうですか」 「あー! わたしが好きなのメンチカツじゃなくてコロッケのほうなのに! コーンクリームは!?」 「売り切れでした。普通のならありますから」 「クリームコロッケが良い、メンチは美味しくない」 「さっきの発言との相違が」  先程、誰かと食べる飯が美味しいと言っていたのは誰だ。  優夜は唇を尖らせ、わかりやすく拗ねながら立ち上がる。 「スーパー行ってくる。冷蔵庫空だし」  朝臣も続く。クリームコロッケを探しに、スーパーへ。いつものスニーカーを履いて出ようとする優夜が振り向いた。 「なんかあるなら買ってくるけど?」 「いや、俺も行きます」  スニーカーに並んでいた靴を履きながら答えると、優夜は可笑しそうにケラケラ笑った。何かあったのかと朝臣は顔を上げる。扉が開かれ、外の空気が入ってくる。 「だってほら。朝臣が一人にしてくれないからさ」  ツボに入ったらしく、まだ笑っていた。  秋雨前線が近づいている。鎌崎はピアスを取り外した。耳朶に触れると血とリンパ液がまじったものが指につく。一連の動作を見ていた隣に座る同僚、墨田(すみだ)が「大丈夫ですか?」と尋ねた。 「大丈夫。雨が多い時期、調子悪いのよね」 「湿度とかですかね? ティッシュどうぞ」 「ありがとう、助かる」  ポケットティッシュを受け取り、それを耳朶に当てた。広告の紙をなんとなく見れば、高給デリヘル。思わず口を開く。 「駅前で配ってたんですよー」 「あたし貰ったことない」 「こんなの貰ってなくてショック受けてる人初めて見ます」 「ショック受けてる、程じゃない、けど……」 「キャッチだって体入しませんかーだって人選んでますから。私は選ばれるより選ぶ人間になりたいです」  鎌崎はその手を口に当てる。 「格好良い、惚れる」 「鎌崎さんに惚れられてもなあ」 「でもあたしにも選ぶ権利はあるから」 「そうやって上げて落として刺さないでください」  どんな狩人だ。  墨田はPCに向き直り、仕事を再開した。窓の外は雨だ。  秋だった。優夜に再会したあの日も、優夜が「もう描けない」と泣いた日も。  こんな雨の日だった。  鎌崎はもう片方のピアスも外し、立ち上がる。午後から外での打ち合わせが入っていた。ジャケットを羽織って鞄に折り畳み傘を入れる。 「じゃあ行ってきます」 「お気をつけてー」  墨田は顔を上げてひらひらと送り出してくれる。鎌崎もそれに笑顔で返す。  大学で家を出たのは、殆ど勘当されたからだ。父親は何も言わなかったが、母親が鎌崎から目を逸らした。自分の子供ではない、というように。  想定した通りの行動に、自分の人生なのに他人事のようで笑えた。鎌崎の人生の半分程は優夜によって救われていたからだ。  学校を卒業して社会に放り出される。鎌崎は数々の就職先の中でここのギャラリーを選んだ。学歴を見た代表が眉を動かしたのは忘れられない。  画廊で働くのは決まっていた。優夜と仕事をする為に。  そして、この格好をして受け容れてくれる場所に。  事務所を出ようとした背中の方で電話が鳴る。 「あ、鎌崎さん! 電話です、阿多良(あたら)さんからです」  鎌崎は振り返った。  鼻を啜る音に優夜は顔を上げる。朝臣は英単語帳を捲った。 「風邪?」 「寒暖差です」 「外寒いのか、秋だな」  言いながら鉛筆の音は止まらない。テーブルの上にあるだけ並べた蜜柑を描いている。雅史が近所の人から貰ったらしく、籠に入っているのを見るなり優夜は目を輝かせた。 「蜜柑好きなんですか?」 「本当は林檎が良いけど、まあ蜜柑でも」  多分被写体の話だろう。朝臣にはよく分からないので黙っておいた。  ちなみに雅史は隣の和室でもう眠っているので二人とも静かに過ごしていた。テレビも消しており、雅史が眠るときにつけるラジオの音だけがこちらまで聴こえている。 「優夜さん、まだ帰らないですよね」 「んー、もうちょっと」 「風呂入ってきて良いですか」  英単語帳を閉じてテーブルに置く。優夜は鉛筆を止めて時計を見た。 「行ってらっしゃい」 「ちゃんと待っててくださいね」 「はいはい」  朝臣が居間から出ていった。優夜は蜜柑へ視線を戻す。歪な楕円と、へこみ、傷、斑点とヘタの形。ひとつずつ違うそれを観察する。  烏の行水並みに早く戻ってきた朝臣に、優夜は苦笑する。描き終えて、蜜柑を食べていた。 「食べられている……」 「そりゃ食べられる為にここに来たからさ。さて、帰るね」 「送ります」 「玄関までな、寒いし」 「いや、」 「受験生」  そう言われ、閉口する。最近その言葉に弱い。  蜜柑を籠に戻し、優夜は立ち上がる。無理にアパートまで着いていくことも出来るが、嫌がるのが目に見えているのでしない。  朝臣は玄関でその背中を見送る。角を曲がり、見えなくなるまで。  居間に戻る。視線を感じる、とテーブルに目を向ければ籠に積まれた蜜柑と目が合う。蜜柑に目が描いてあった。  ふ、と笑みが溢れる。その一つを手に取り居間の電気を消した。
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